JAL123便墜落事故とは、1985年8月12日18時12分に日航123便が御巣鷹の尾根に激突して炎上し、4名の重傷生存者と520名の死亡者を出した事故である。
事故原因は、1978年のしりもち着陸事故後の、ボーイング社による修理が不適切だったためとされている。
だが、数多くの不審な点や目撃情報、生存者の証言などから、多くの人々が納得できないままであり、真相は深い闇の中だ。

私がこれから書くことを100パーセント信じろとは言わない。
だが、発表された事故内容やテレビなどで感動の美談化された特集を、鵜呑みにせず、疑ってみてほしい。

これだけは言っておきたい。
こうして事故を掘り返すような記事を書くのは、決していたずらな気持ちではない。
以前運営していたサイトでこの事故について書いたところ「犠牲者を静かに眠らせてあげたらどうですか?」というコメントが来たが、私には面白半分で墓場を荒らすかのような気持ちは無い。

あと数日で、あの事故からちょうど30年だ。心より犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたします。



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<当日の背景>

1985年8月12日、海では相模湾・伊豆沖に『まつゆき(当時の最新鋭護衛艦)』などの艦船・潜水艦が出動、空では茨城県百里基地所属の航空自衛隊戦闘機の他、航空自衛隊や在日米軍の電子戦機が待機、更に上空では米軍の軍事衛星が演習を監視という形で、日米合同軍事演習が行われていました。
また、御巣鷹山はゲリラ訓練場となっていたと言われていますが、それはありえないという意見もあります。


<123便に何が起こったのか>

午後6時12分、JAL123便が羽田空港を離陸。その後、午後6時18分過ぎに、右前方から何かが飛行機に近づいてきました。
この『何か』は、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた乗客がカメラに収めています。

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そして、123便に『何か』が衝突。その際、機長は「まずい、何かわかったぞ。スコーク77入れるぞ」と、副操縦士は「スコーク77。オレンジエア」と言っています。
つまり“オレンジ色の航空機と衝突した”ことを自衛隊機に報告していることが明らかなのです。 
 
衝突した『何か』とは、実証実験中の誘導ミサイル、無人標的機のファイア・ビー。そして、それを追尾していたチャカIIではないかと言われていますが、アメリカ空軍の練習機によるミサイル誤射だとも言われています。
民間機を標的にした訓練はどこの軍隊も当り前のように行っていることで、相模湾(米軍の訓練海域)に進入してきた民間機を米軍機が代理標的に見立てることは不自然ではありません。
好評されていませんが、過去には、米軍機がスペインで民間機を撃墜してしまった事実もあります。

また、1997年7月30日には、全日本空輸の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落しています。
この時、自衛隊機の乗員は脱出に成功、旅客機は空中分解し、162名全員が犠牲となりました。
事故原因は、大型旅客機を仮想敵機にして接近しすぎてしまったこと。
1952年4月9日に日航の『もく星号』が墜落した事故も、原因は同じでした。

なんにせよ、飛行中に123便が突然壊れ、わけがわからないまま御巣鷹の尾根に突っ込んだとされている発表は大嘘です。

衝突音の7秒後、123便はスコーク77の識別コードを送信しました。
スコーク77は緊急事態の宣言であり、民間機が何かに要撃の対象とされた場合の緊急コールで、発信した民間航空機は自衛隊機の指示・誘導に従うよう定められています。

その後、自衛隊のF-4EJ戦闘機が2機、F-15J戦闘機が1機、123便を御巣鷹山へ導きました。
横田基地への着陸を阻止された123便は、素晴らしいフライト技術とチームワークで飛行を続け、山麓に胴体着陸態勢に入りました。
ところが、なぜかミサイルが撃ち込まれ、午後6時56分過ぎに墜落してしまいました。ミサイルはエンジンと機体本体に一発ずつ打ち込まれています。

御巣鷹の尾根に裏返しの状態で激突した123便。胴体後部は折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行きました。
後に生存者が発見されたのはこの胴体後部からです。

これは墜落の7分前(18時49分頃)に撮影された写真です。

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<撃ち落とされたのは123便だけではない>

123便を撃ち落としたのは、待ち構えていた自衛隊地上部隊のレッドアイだと考えられています。
地上部隊は123便の他、誘導した自衛隊機、123便を追っていた米軍機F-19(F-117)、諜報活動中であったNSA(米国家安全保障局)の偵察機、ロシア軍のスホーイも撃ち落しました。 
ロシア軍のスホーイに関しては、まったくの偶然で巻き込まれたとも言われています。
ツナ缶の工場にロシアから輸入したツナを運び込む際、護衛のために上空から船に追尾することが慣例であり、この日も船の入港日であったとか。
ここらへんは、どこの国の何が何を撃ったのか撃たなかったのか、ごちゃごちゃしすぎていてさっぱりわかりません…

ピカッと雷光のような閃光、黒いキノコ雲が目撃されており、核兵器使用の痕跡もあります。
御巣鷹の尾根にはF-19(F-117)がレントゲンの原理で焼き付いており、自衛隊に落とされた証拠となるF-19の残骸も見つかっています。
墜落前の123便の福田航空機関士も「19だ!」と叫んでいます。

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また、123便墜落事故後に、123便(ボーイング社:B747-SR)ではなく、ロッキード社(F-19)の事故調査員が検証しています。
123便のことより、F-19の消失事故として調査を行う形に、疑問を持たずにはいられません。


<帰還命令と口止め>

123便の墜落は、すぐに横田基地米軍輸送機C-130が察知しました。そして、午後7時30分に墜落現場を特定、その20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせています。
現場の上空には、座間基地所属のヘリUH-1も到着。ロープを降ろして救助を始めようしました。
ところが、陸軍ヘリUH-1と上空で待機していたC-130に、帰還命令が発せられたのです。
「引き返せ。そして口外するな」

その後、なぜか自衛隊は墜落場所の誤報を意図的に繰り返します。
このため、航空自衛隊救難隊によって123便の機体が発見されたのは、翌朝の午前5時10分。
その後、陸上自衛隊偵察ヘリによる機体確認、長野県警ヘリによる墜落現場の確認、各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認されました。

午前8時半、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、陸上自衛隊第一空挺団の隊員も現場に降下して救難活動を開始しました。
陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着して、やっと本格的な救難活動が開始されました。
到着が遅くなったのは『123便が輸送していた医療用放射性同位体と、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒』が理由だと発表されていますが…
 

<全員死亡のシナリオ>

これだけは忘れてはいけません。
縦割り組織警察の常識を無視して『全員死亡による救助打ち切り命令』で動けない群馬県警管轄地域へ越境進入したのは、長野県警レスキュー隊です。
現場で早々と『全員即死宣言』をした自衛隊幹部に「まだ生存者がいるぞ!」と怒鳴って救助活動を促した消防団員や報道関係者の人達。彼らがいなければ、誰一人助かっていなかったことでしょう。

現場にいた消防団員は「最初は医師・看護婦は現地に送り込まれていなかった。生存者が発見されてから急に慌てた。生存者に対する準備ができていなかったような気がする」と話しています。
また、11時に生存者発見、12時に仮設ヘリポートへ移動、ヘリポートで1時間30分以上待たされ、14時15分頃にやっと病院へ搬入という不手際さ。
一刻を争う状態の生存者を現場に2時間近く放置し、病院搬入まで3時間以上も費やしているとは何事でしょうか。
救命どころか、生き延びてもらっては困るかのような対応です。


<横田基地米軍輸送機C-130の元パイロットによる証言>



以下は、C-130に乗っていた男性の証言です。
彼はその日、偶然、沖縄の那覇からC-130で飛んでいました。そして、日本側より14時間も前に墜落現場を発見した事実を公表しています。
 
『あの飛行機事故のことは10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。 
JAL123便が管制塔に緊急を告げた時、たまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに発見出来た。墜落の2時間後にはアメリカ海軍の救助ヘリが現場に着いた。あの時、救助にストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。
現場を確認後、グリフィン隊長は残骸の上空600メートルでそのまま旋回飛行を続けた。私は横田基地からの位置を測り、20分後には正確な位置を割り出して横田基地に知らせた。 
やがて横田基地から連絡が入り、60キロ離れた厚木基地から海軍の救助隊が来ると知らされた。あと1時間で着くという。

司令部の命令はこうだった。「日本の救助隊が向かっている。すぐ基地に戻るように」
しかし私は次のように伝えた。「海軍は救助に入りたいと言っています」
すると司令部は次のように言った。「繰り返す。すぐ基地に戻るように。海軍も同じだ」
もはや私は「わかりました。帰還します」と答えるしかなかった。降りかけていたヘリの乗員たちは、再びロープを登っていった。その時、我々の900メートル上空に、日本の飛行機が旋回しているのを認めた。 
午後9時20分だった。これが現場に来た最初の日本の飛行機である。

横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団の副司令官、ジョエル・シルズである。グリフィン隊長が報告を終えると、シルズは「よくやった。でもこのことは 一切マスコミに話してはいけない」と言った。理由はまったく説明されなかった。 
しかし、翌日のニュースは、もっと衝撃的だった。日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは墜落の14時間後だと言っているではないか。
私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。私には自信があった。伝えた位置は正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、間違いない。
我々はあの時、現場の上空を飛んでいた日本の救援隊に後を任せた。それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか? 一体、朝まで何をしていたのか?不思議でならなかった。

事故から2週間たって、私はタイムとニューズウィークで、生存者が4人いたことを初めて知った。しかし残りの記事は、間違いだらけだった。
生存者の一人の証言が私をぞっとさせた。彼女は墜落後、数人の子供達の声を聞いたと言っていた。ヘリを見て手を振ったが、気づいてくれなかったと語っていたのだ』

こういった様々な証言さえ、真実かどうかはわかりません。
我々はいったい誰を、何を信じればよいのでしょう。 


<本当に一番早く現場に入ったのは>

一番早く現場に入ったのは長野県レスキュー隊とされていますが、本当は、国家機密を守るための自衛隊特殊部隊です。
13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に、既に100名程度の自衛隊特殊部隊員が来ています。

証言者によると、この頃4~50名の生存者がいました。しかし、特殊部隊は生存者の救出など一切行わず、人命救助よりも『何か』の回収を優先しました。大きな袋、丸いバッグに何かを集め、上空からヘリが袋を回収するという作業のみです。
特殊部隊は回収作業が終わっても人命救助は行わず、現場を去りました。その1時間後には生存者の声が全く聞こえなくなったそうです。
いったい何を回収していたのか、これは、証拠隠滅のために米軍機やミサイルの破片などを回収していたと考えられます。


<回収作業だけでなく>

特殊部隊は回収作業だけでなく、とても惨いことを行っていました。
彼らは、4~50名いたはずの生存者を、毒ガス(携帯用VXガス兵器)で殺し、火炎放射器で焼いたのです。

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当時、遺体の歯形で本人確認を行った歯科医師はこう述べています。
「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。二度焼きしたような状況だ」
 
彼らは生存者を残さないように、ヘリコプターで薬(おそらくフッ化ホウ素)まで撒く徹底ぶりです。
後に4名の生存者が発見されたのは、まさに奇跡であり、彼らのミスでもあります。

生存者についても疑惑があります。生存者は、落合さん、川上さん、吉崎さん親子の4人と発表されていますが、他にも4人目撃されているのです。8月13日の夕刊ではも『生存者8人』と発表されています。
落合さんらの他に、元気な7歳くらいの男児と女児、中学生くらいの少年、20代の男性がいたはずなのに、どういうわけか、その日以降情報が途絶しました。話題にも上りません。最初からいなかったかのような扱いです。

また、待機命令に反して人命救助を急いだ自衛隊員数名が射殺されています。
生存者を匿ったために、拘束されて送り返された者も多数いました。
精神状態がおかしくなる隊員も多かったそうです。
彼らは「口外すれば家族にも危害が及ぶことになる」とも仄めかされています。

米軍の救助活動を拒否し、多くの生存者を救助しないどころか無残にも殺害し、せっせと証拠隠滅を図った特殊部隊員達。彼らだけを責めてはいけません。もっと深部を見てください。
彼らに惨たらしい命令を下したのは誰か。自衛隊を動かしている存在といえば、政府です。



JAL123便墜落事故(2)へ続く