船橋海軍無線電信所跡地に行ってきました。戦争遺跡です。
昭和16年12月2日午後5時30分に、真珠湾攻撃実行の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信した事で知られています。
大正4年に旧海軍の無線基地が完成、昭和16年頃に長短波用の大アンテナ群が完成、そして昭和46年に全て解体されましたが、直径800mの円である独特の地形は今もそのまま残っており、ミステリーサークルとも言われています。
ちなみに、最近行った①防衛省の宿舎、②大六天神社、③八幡神社、④鉄道・運輸機構の宿舎、のすぐそばです。
<以下、引用>
さてさて、まずは行田公園へ。
東側を少しだけ見ました。
マチバシイやケヤキなど様々な樹木があり、サイクリングロードをウォーキングする人や所々にある健康遊具で筋トレする人、芝生で遊ぶ子供達など、じつに平和な光景です。
春には花見をする人も多く訪れます。
カラスの巣があるので見上げるのさえ危険という…
目当ての物は西側にあるので、大きな歩道橋を渡って移動します。
歩道橋の上から西側を見たところ。
西側へ到着!目当ての物がありました。
船橋無線塔記念碑です。
中に入ると、左側に人工池がありました。
入って左側の植え込みに、無線塔があった頃の写真が。
入って真っ直ぐ進むと、花時計があります。
その向こうにある芝生で、近くの小学校のサッカー部員が練習中でした。
公園内の日本庭園に行ってみます。
コナラを発見。
もちろんドングリを拾いました。
猫!
ここが日本庭園です。鴨が何羽も泳いでいました。
もう少しじっくり見たかったのですが、日が暮れる前にまだまだ撮りたい場所があるので公園を出ます。
海軍無線電信所跡地とその周辺・2(海軍の痕跡を探そう!)へ続く
昭和16年12月2日午後5時30分に、真珠湾攻撃実行の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信した事で知られています。
ニイタカヤマ(新高山)とは、日本領だった台湾の玉山(標高3,952m)のことです。当時の日本の最高峰でした。
一二〇八は12月8日のことなので、この暗号は『12月8日午前0時をもって真珠湾攻撃を開始せよ』という意味。
大正4年に旧海軍の無線基地が完成、昭和16年頃に長短波用の大アンテナ群が完成、そして昭和46年に全て解体されましたが、直径800mの円である独特の地形は今もそのまま残っており、ミステリーサークルとも言われています。
ちなみに、最近行った①防衛省の宿舎、②大六天神社、③八幡神社、④鉄道・運輸機構の宿舎、のすぐそばです。
<以下、引用>
無線関係の機器一式は、ドイツのテレフンケン社製のものが採用され、ジーメンス社に発注が行われた。
着工は1913年。しかし、翌1914年に第一次世界大戦が起こり、日本がドイツに宣戦布告をしたことから、ジーメンス社の技術者が図面を焼却して帰国してしまった。
そのため、工事は困難を極めたが、1915年4月には開所式が行われ、同年7月にはハワイとの間で通信試験に成功。8月より正式に軍用通信が開始された。
着工は1913年。しかし、翌1914年に第一次世界大戦が起こり、日本がドイツに宣戦布告をしたことから、ジーメンス社の技術者が図面を焼却して帰国してしまった。
そのため、工事は困難を極めたが、1915年4月には開所式が行われ、同年7月にはハワイとの間で通信試験に成功。8月より正式に軍用通信が開始された。
1916年には逓信省の通信所が併設され、大相撲の結果などを外国航行船舶等に乗り組み、日本を遠く離れていた船員達に知らせ喜ばれるなど、民間向けにも利用されたという記録も残っている。
ハワイの無線局と日米間通信が1924年まで行われたが、中でも1923年に起こった関東大震災の際には、銚子無線電信所と共に通信が壊滅状態になった東京都心の被害情報を、横浜港に停泊中の船舶からの打電を受信して新聞社が集まる大阪市など国内外に発信、救援活動に多大な貢献をした。なお、この出来事は船橋の名を広く世界に知らせるきっかけとなった。
ハワイの無線局と日米間通信が1924年まで行われたが、中でも1923年に起こった関東大震災の際には、銚子無線電信所と共に通信が壊滅状態になった東京都心の被害情報を、横浜港に停泊中の船舶からの打電を受信して新聞社が集まる大阪市など国内外に発信、救援活動に多大な貢献をした。なお、この出来事は船橋の名を広く世界に知らせるきっかけとなった。
また同年、霞ヶ関の海軍省内に受信所が置かれたため、名称が『海軍無線電信所』から『海軍無線電信所船橋送信所』に改められた。
昭和10年代に建て替えられた鉄塔の高さは、約60メートルから200メートル近くあるものもあり、ランドマーク的な役割を担い船橋市民(特に西船橋周辺の地域の住民)に親しまれた。
戦後は進駐軍が接収し1966年に返還されたが、1971年5月19日から解体が開始された(1972年まで)。
戦後は進駐軍が接収し1966年に返還されたが、1971年5月19日から解体が開始された(1972年まで)。
さてさて、まずは行田公園へ。
東側を少しだけ見ました。
マチバシイやケヤキなど様々な樹木があり、サイクリングロードをウォーキングする人や所々にある健康遊具で筋トレする人、芝生で遊ぶ子供達など、じつに平和な光景です。
春には花見をする人も多く訪れます。
カラスの巣があるので見上げるのさえ危険という…
目当ての物は西側にあるので、大きな歩道橋を渡って移動します。
歩道橋の上から西側を見たところ。
西側へ到着!目当ての物がありました。
船橋無線塔記念碑です。
碑文
『ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げるニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年5月解体され栄光の歴史を閉じた。』
中に入ると、左側に人工池がありました。
入って左側の植え込みに、無線塔があった頃の写真が。
入って真っ直ぐ進むと、花時計があります。
その向こうにある芝生で、近くの小学校のサッカー部員が練習中でした。
公園内の日本庭園に行ってみます。
コナラを発見。
もちろんドングリを拾いました。
猫!
ここが日本庭園です。鴨が何羽も泳いでいました。
もう少しじっくり見たかったのですが、日が暮れる前にまだまだ撮りたい場所があるので公園を出ます。
海軍無線電信所跡地とその周辺・2(海軍の痕跡を探そう!)へ続く
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