⚠️メンテナンス中⚠️狭いベランダは我が森ぞ

言いたい放題な生息記録

タグ:バラック群

船橋のバラック群へ再々訪問の番外編です。
コメント欄でそらす様より教えていただき、StreetViewで2009年のバラック群を見てみました。
今は無き建物や、火事になる前の建物など、色々と貴重な資料です。


この水路側に大きく傾いた建物、今はありません。
私が初めてバラック群についての記事を書いた時、一番初めに発見した建物として載せたのが、その隣の建物です。

バラック2009の11月その2


居酒屋Goの手前、崩れたこの建物も今はありません。

バラック2009の11月


居酒屋Goの次の建物。こちらも今は無く、立入禁止の看板が立っているのみ。
こんなに長い建物があったのですね。

バラック2009の11月その3


この辺りは今もあります。
2009年の時点で屋根が崩壊していたかどうかは、裏が見えないので断定できませんが、StreetViewを見る限りは人が住んでいるようなので、まだ無事だったのではないでしょうか。

バラック2009の11月その4


このシャッター付きの小さな建物、こちらがあの火災現場です。

バラック2009の11月その5火災前


こちらも今はありません。看板に渡辺商事とあります。
居酒屋Go以外にも店舗として使われていた建物があったのですね。

バラック2009の11月その6


この辺りも今はありません。

バラック2009の11月その7


こちらも今はありません。金網で囲ってあるのは鳥小屋のようです。

バラック2009の11月その8


こちらも今はすっかり撤去済み。崩壊後の写真です。

バラック2009の11月その9


こちらも今はありません。かつてはこの建物が、水路沿いに続く最後の建物だったのですね。

バラック2009の11月その10


いやあ、やっぱりStreetViewは便利だなあ。
現地に行かなくても、ここまで鮮明に過去まで見ることができるなんて。
たまに弟と軍艦島を見たり、夜な夜な一人で海外旅行もどきしてますよ。

この辺りについての説明、その1で私が書いた内容とかぶりますが、Wikipediaにはもう少し詳しく書いてあったので、引用しておきます。
 
『江戸時代は九日市漁師町の遠浅海岸であり、その後砂浜を利用して塩田が開発されたが 1917年 9月30日の台風による津波によって全滅し、さらに昭和4年に塩専売法によって命脈を絶たれた。その後塩田跡地は放置されていたが、戦後になると都内から戦災者や引揚者が多く住み着いた。『都疎浜』(とそはま)と呼ぶこともあり、今でも自治会名などにその名を残している。この土地は現在、船橋市の所有であり、不法に建築、居住されている為、立退き指定エリアとなっている。徐々に解体され空き地が増えており、またひとつ、昭和の遺産が消え去ろうとしている。』

ということで、『船橋のバラック群へ再々訪問』の最終記事です。
大したことは書きませんが、もう少しお付き合いください。

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水路を挟んでの、密林化したバラック群と、都会化された船橋。 

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水路から見上げた、都会化側の景色。植物さえも整備済み。

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顔を逆方向に向けるだけで、鬱蒼としたバラック群が視界に広がる。

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ちなみに、水路沿いのバラック群以外にも、近くに何軒か廃墟があります。
周囲は真新しい家ばかりですし、これらもいずれ取り壊されるのでしょう。

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また、近くにある南浜診療所は、バラック群を含む『都疎浜』と非常に深い関係にあります。
戦争中に東京から疎開してきた人々が住んだことから『都疎浜』と呼ばれるようになったわけですが、この地域の埋立てが進んで宅地化され始めた頃から、埋立地特有の問題が発生。雨水処理施設が未整備だったり、乾燥する冬季は特に砂埃が舞うといった問題です。
その不衛生的な環境から住民に病人が発生するため、地域の人々が自分達の診療所を作ろうと運動し、昭和23年に開設したのがこの診療所なのです。

しんりょうじょ

こんな記事も見つけたので引用しておきます。

2009年10月 杉浦富美子さんを偲ぶ会
戦前から日本共産党に係わり、特高警察の拷問にも節を曲げずに頑張り抜いた女性、杉浦富美子さんが、9月3日、95歳で亡くなりました。当時、都疎浜で南浜病院(現・南浜診療所)を作り、婦人運動や地域自治会でも活躍。日本共産党員として戦後も60年以上にわたって活動を続けてきました。


ちなみに、都疎浜という名前は今でも『都疎浜自治会館』や『都疎浜中央公園』『都疎浜広場』など、少しですが残されています。
下の写真は京葉道路脇に細く続く、都疎浜広場。

バラック9


だいぶ空腹なので、帰らねば。
もちろん、またこの辺りに行くことがあったらUPします。 

さて、次の物件はこちら。

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水路の向こう岸から見ると、建物の裏側はこうなっています。
屋根が半分ほどありません。
以前、夕方にアブラコウモリが飛んでいたのがこの上空なので、おそらく中に巣があるのでは?

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横の隙間から、建物の裏に回ってみます。

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さっそく数々の粗大ゴミが!

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しかし、ちゃんと道(?)が出来ているので歩けます。

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バラされた部品がいくつかありました。
誰かがここにゴミを集め、部品をバラして売っているのでしょうか。

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だとしたら、鉢合わせなくて良かったです。
お互いのためにも。

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カーテンが付けられていますが物凄い崩壊っぷりです。
コウモリの巣を探したいところですが、少しでも触れたら更に崩壊しそうなのでやめておきます。

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東武ストアの買い物かごを発見。私もたまに行くスーパーです。

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なんと、隣の家には開けっ放しの窓に数枚の洗濯物が。
そして庭(?)には、家庭菜園(?)がありました。
小さな畑に、二本の傘が逆さに吊るしてあり、マリーゴールドやプチトマトが育っています。

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人の気配はしませんでした。
しかし、別の日には通り側の窓も開いていたし、中から声が聞こえたこともあります。
今でも人が住んでいる貴重な物件なので、ここはそっとしておきます。 

ちなみに、 ただ住んでいるだけの人、ちゃんとそこで生活している人はそっとしておけば問題ありませんが(その時点でそこは廃墟じゃありませんし)、何かの目的でこっそり出入りしている人や、勝手に侵入して寝床にしている人との遭遇は危険です。
一番恐ろしいのは、闇取り引きを目撃してしまい、消されることでしょう。こういう場所を利用する悪い奴もいますからね。
廃墟の探検は、人間との遭遇が、ある意味崩壊よりも危険です。

他のバラックも充分見応えがあります。
相変わらず、生々しい火災現場もそのまま残っていました。

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いたずらでの放火なのか、それとも…?
この火災現場の隣にもバラックがありますが、よく火が移らなかったなあ。

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火災現場と隣のバラックの隙間から、裏へ回りこんでみます。
放置された折り畳みベッドは、かつての住民の物か、それとも誰かが棄てていった物か。

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裏には、ゴミというよりは植木鉢がたくさん散乱していました。
かつての住民は、きっと園芸が好きだったのでしょう。

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火災現場の隣のバラックには、木造のベランダがありました。
なぜだか、ここでの暮らしも悪くない気がします。人間らしく過ごせそうな、そんな気が。

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やはり、排水のための長いパイプが、水路へと伸びています。

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居酒屋Goと同じく、建物のほとんどが浮いているような状態です。

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水路の向こう岸から見ると、こんな感じ。
ちなみに、さっき裏へ回った際、頭に緑色の蜘蛛の巣、服とバッグにたくさんのイノコズチ(くっつく植物)が付いてしまい、取るのが大変でした。

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猫を発見。
そういえば、近くの掲示板に「野良猫が繁殖して困っているので猫を飼っている人は避妊手術をしてください。外に出さないでください」というような紙が貼ってあったなあ。

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さて、夜回り組長の愛称で知られている、作家の石原伸司さん(元暴力団組長・非行少年少女たちの更生に取り組んでいる)を御存知でしょうか?
石原さんは、昭和13年に東京都墨田区東両国で生まれ、すぐに千葉県習志野市に疎開。昭和25年、まだ子供の頃に、父親の暴力から逃げて家出をしています。
その後も波乱万丈な人生を送った石原さん、著書『逢えてよかった』の中に、12歳で浮浪児となった当時のことを書いているのですが、そこにこんな一説があります。

『船橋で下車し、バラックや廃墟ビルに忍び込んで夜の寒さを凌いだ。バラックには年老いた浮浪者たちが住んでいた』

この南本町44番地のことだとは断定できませんが、もしかしたら…と思いました。

外から見ると、建物のほぼ半分が浮いているように見えます。

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元々地盤が悪い場所にムリヤリ建てていますので、崩壊するのは本当に時間の問題でしょう。
よくあの大震災に耐えられたなあ…

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さっきまで中に入り、この上にいたなんて、私の体重や歩く刺激で崩壊してもおかしくなかったかも。
そのリスクは覚悟の上でしたが、無事に出られて良かったと胸を撫で下ろします。

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反対からもじっくり観察。蔦がネッシーみたい。

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バラックから水路へと、黒いホースが伸びていました。
こうして排水していたのでしょう。

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電気は、これもまたやっつけ仕事のような電線が…
他のバラックもこんな感じで、電線やら何かの配線やらが目立ちます。

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ガスは、かもめガス(LP)のガスボンベから。

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小鷺(コサギ)が飛んできました。

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デートの約束をしていたようです。

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Goを水路の向こう岸から見ると、こんな感じ。

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居酒屋Go跡地については、とりあえずここで終了。
建物に歴史ありですね。
他のバラックは中に入れませんが、外からだけでもじっくり見ていきます。 

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