タグ:探検
津田沼の軍事遺跡(3)
パルコの裏、線路脇で、ひたすら陸軍境界標石を探しました。
これがまた少し大変な作業なのです。軍と関係の無い標石も同じ形をしていますし、削れて文字が見えなかったり、ほとんど埋まっていたりしますから。
ちなみにこれは違います。マークも材質も、陸軍のものではありません。
よく見えませんが、これも違います。
「千」らしき文字が確認できます。ああ、これも違う。
こちらもたぶん「千」ですね。
これらも軍ものではありません。
こちらも『千』の文字。千葉の千でしょうか?
「境界標」とハッキリ読み取れますが、陸軍の文字は無し。
やっと発見いたしました!これこそが、陸軍境界標石です。
残念ながら何の文字も読み取れませんが、こちらは他と石材が違うので、陸軍境界標石だと断定できます。
その後も探しましたが、見つからず。
標石探しはとりあえずここでお終いにします。
これがまた少し大変な作業なのです。軍と関係の無い標石も同じ形をしていますし、削れて文字が見えなかったり、ほとんど埋まっていたりしますから。
ちなみにこれは違います。マークも材質も、陸軍のものではありません。
よく見えませんが、これも違います。
「千」らしき文字が確認できます。ああ、これも違う。
こちらもたぶん「千」ですね。
これらも軍ものではありません。
こちらも『千』の文字。千葉の千でしょうか?
「境界標」とハッキリ読み取れますが、陸軍の文字は無し。
やっと発見いたしました!これこそが、陸軍境界標石です。
残念ながら何の文字も読み取れませんが、こちらは他と石材が違うので、陸軍境界標石だと断定できます。
その後も探しましたが、見つからず。
標石探しはとりあえずここでお終いにします。
津田沼の軍事遺跡(2)
八坂神社へ向かいます。
道路脇には蔦の這うシートが。土が舞うのを防止するためにかけられたシートなのでしょうけれど、私にはゲリラ戦の待ち伏せ用か何かに見えてしまう…
この八坂神社は、大正13年に津田沼駅前の商店街で祀られていたお稲荷様を、昭和50年にここへ移転したものだそうです。
私の目当てはこちら。
「皇紀二千六百年紀念」と刻まれた国旗掲揚台です。
いつものことですが、手水に水無し。
狛犬は、まるで飛びかかってきそうなポーズと表情でした。
登山紀念碑のほうは、裏面に「大正14年7月」とありました。
これは何でしょう?宇宙っぽさを感じてしまいます。
境内の木に、サルノコシカケが。
さて、次の目当てへと探検を続けます。
道路脇には蔦の這うシートが。土が舞うのを防止するためにかけられたシートなのでしょうけれど、私にはゲリラ戦の待ち伏せ用か何かに見えてしまう…
この八坂神社は、大正13年に津田沼駅前の商店街で祀られていたお稲荷様を、昭和50年にここへ移転したものだそうです。
私の目当てはこちら。
「皇紀二千六百年紀念」と刻まれた国旗掲揚台です。
いつものことですが、手水に水無し。
狛犬は、まるで飛びかかってきそうなポーズと表情でした。
登山紀念碑のほうは、裏面に「大正14年7月」とありました。
これは何でしょう?宇宙っぽさを感じてしまいます。
境内の木に、サルノコシカケが。
さて、次の目当てへと探検を続けます。
津田沼の軍事遺跡(1)
先日、津田沼の軍事遺跡を見に行ってきました。
駅前のラーメン屋『SLつけ麺』の看板を見て「なんでSL?」と思う人が多いと思いますが、津田沼と言えば、かつて陸軍鉄道連隊があった地。
今でもよく探せば、あちこちにその名残りがあるのです。
以下、駅前の案内板より抜粋。
日本の鉄道連隊は、明治28年(1895年)日清戦争における臨時鉄道隊の編制に始まり、同29年、東京牛込に常設され鉄道大隊となりました。
同39年、習志野に派遣隊がおかれ、津田沼-三山間の演習線が敷設されると、翌年、連隊の編制が始まりました。
これに伴い津田沼は、第三大隊が千葉より転営し、翌40年、材料廠がおかれて軍の鉄道敷設演習の拠点となりました。
演習線は、明治44年に千葉-津田沼間が敷設され、大正7年(1917年)には津田沼-松戸間もほぼ完成しました。
同年、連隊の編制替が行われ、津田沼には鉄道第二連隊がおかれました。
現在も、鉄道連隊の表門が千葉工業大学の門として使われていると聞き、さっそく見に行ってきました。
当時のままの、煉瓦造りです。
この門は、国の登録有形文化財に指定されているとのこと。
少し歩いて、津田沼一丁目公園に移動します。
この公園には、鉄道連隊で使用された機関車があります。
隣のヨーカドーも含め、この辺りはかつて材料廠の倉庫などがあった場所。
K2型機関車134号。
陸軍演習線(現在の新京成線津田沼-松戸)を実際に走っていた機関車です。
K2型機関車は、ドイツのオーレンシュタインウントコッペル社製E形蒸気機関車を手本として、川崎車輌が陸軍のために作った機関車。
47両が作られたうち、10両は満州へ送られたそうですが、現在どうなっているのかは不明です。
駅前のラーメン屋『SLつけ麺』の看板を見て「なんでSL?」と思う人が多いと思いますが、津田沼と言えば、かつて陸軍鉄道連隊があった地。
今でもよく探せば、あちこちにその名残りがあるのです。
以下、駅前の案内板より抜粋。
日本の鉄道連隊は、明治28年(1895年)日清戦争における臨時鉄道隊の編制に始まり、同29年、東京牛込に常設され鉄道大隊となりました。
同39年、習志野に派遣隊がおかれ、津田沼-三山間の演習線が敷設されると、翌年、連隊の編制が始まりました。
これに伴い津田沼は、第三大隊が千葉より転営し、翌40年、材料廠がおかれて軍の鉄道敷設演習の拠点となりました。
演習線は、明治44年に千葉-津田沼間が敷設され、大正7年(1917年)には津田沼-松戸間もほぼ完成しました。
同年、連隊の編制替が行われ、津田沼には鉄道第二連隊がおかれました。
現在も、鉄道連隊の表門が千葉工業大学の門として使われていると聞き、さっそく見に行ってきました。
当時のままの、煉瓦造りです。
この門は、国の登録有形文化財に指定されているとのこと。
少し歩いて、津田沼一丁目公園に移動します。
この公園には、鉄道連隊で使用された機関車があります。
隣のヨーカドーも含め、この辺りはかつて材料廠の倉庫などがあった場所。
K2型機関車134号。
陸軍演習線(現在の新京成線津田沼-松戸)を実際に走っていた機関車です。
K2型機関車は、ドイツのオーレンシュタインウントコッペル社製E形蒸気機関車を手本として、川崎車輌が陸軍のために作った機関車。
47両が作られたうち、10両は満州へ送られたそうですが、現在どうなっているのかは不明です。
この134号は、戦後、津田沼陸軍から西武鉄道に持ち主が変わり、西武鉄道の砂利運びに使用されました。
その後、ユネスコ村(埼玉県所沢市にあった西武鉄道所有の遊園地)で展示されていましたが、1994年にユネスコ村が閉鎖した後、この公園へ展示されました。
その後、ユネスコ村(埼玉県所沢市にあった西武鉄道所有の遊園地)で展示されていましたが、1994年にユネスコ村が閉鎖した後、この公園へ展示されました。