ヴォーカル講師の仕事は、基本的に目のキラキラしたやる気のある生徒さんが相手です。
歌手を目指している人もいれば、すでに声優をやっていてCDデビューも考えている人、歌手になりたいわけではないけれど歌が上手くなりたい人、友人の結婚式で歌うため急遽レッスンを受けに来た人、などなど。

でもね、中には嫌な人もいるんですよ。
生徒さんのことを悪く言いたくはありませんが、まあ、あの子は正式な生徒じゃないし…書いちゃう。



私がヴォーカル講師の仕事で出会った、無料体験レッスンの生徒、ムーニンという女性(小太りの23歳)について書かせていただく。
ムーニンは申し込みの際に、ビジュアル系のバンドを組んでいて、ほとんどプロだと言っていた。様々な音楽事務所からも誘われていると。
ちなみに、ムーニンという名前は本人がそう呼んでくれと言ってきたもの。ムーミンから取ったらしいのだが、人間だからムーニン(ムー人)にしたとのこと。

まあ、とにかくムーニンは、レッスン当日15分遅刻して登場。しかも、マンツーマンレッスンだと言ってあるのにベースのハイジさん(23歳)とマネージャーのイクちゃん(15歳)を連れてきた。
バンドメンバーはこれで全員。他パートは募集中で、オーディションで決めると言う。
とにかく、ムーニンが「ハイジとイクがおらんと歌えへん!」とごねるため、特別に皆でスタジオに入ることになのだが…


「イク、ドリンク!」
ムーニンは、偉そうな声でそう言うとイクちゃんを顎で使った。イクちゃんは、素早くミネラルウォーターの入ったペットボトルを渡し、ムーニンはそれを飲むと、バッグからマイ・マイクを取り出す。
「あたしは、このマイクでしか歌わへんから」
真新しいマイク。それに、スタジオに入るのは初めてのようで、セットの仕方が全くわからない様子。あれ?ほとんどプロって言ってなかったっけ?まあ、いいや。

まずは少し歌ってもらうことにして、ムーニンが持ってきたCDをかけた。某ビジュアル系バンドのCDだった。
ハイジがベースの一弦だけを鳴らし始める。ひたすら一定にベンベンベンベンの繰り返し。
「スカウトは来るねんけどな~、カラーが合わへんから断ってんねん」
ムーニンはそう言った後、猫背でクネクネ動きながら、蚊の鳴くような小声でボソボソと歌い始めた。

声が聞こえないのでマイクのボリュームを上げるが、ムーニンがマイクに両手をかぶせてしまっているため、あまり音を拾えず。
かと思えば、時々手を離してマイクに唇がべチャッと付くので、スピーカーからいきなりボフッ!というポップノイズが。
声量も極端に無いし、音程もふらふら。これはいったい…


CDを止め、私は基本の『姿勢』を教えようとした。しかし、ムーニンは「あたしのスタイルが壊れるやん!」と拒否
しょうがないので、せめてマイクと口の適切な距離を教えることにした。
「手はかぶせずに、こうやってマイクからこぶし二個分ほど口を離したほうが、マイクが声を拾ってくれますよ。こんなふうに、Ahーー」
私が実践したその瞬間、ムーニンが叫んだ。
「いやああぁぁぁああ!あたしのマイク!あたしのマイク!あたし以外使ったらあかんのに!もうそれ使えへん!もういらない!捨てる!もう歌えへん!」

唖然。しかし、こちらも仕事なので、丁寧に謝った。だが、ムーニンはぐだぐだ語り始める。
「あたし、本当は歌なんか歌いたくないのに、それが使命だから逃げられへんの!だから頑張ってるのにポリープのせいで上手く歌えへんし、ストレスで体も痩せていくし、もう嫌や!」
もう嫌なのはこっちだよ、と思いつつも、「ポリープあるんですか?いつ病院に行ったんですか?」と相手をする私。「病院は行ってへん。でも絶対ポリープがあるんや!」と言い張るムーニン。
ムーニンは「ストレスでどんどん痩せた」ともう一度強調するが、充分太っているから大丈夫だよとは言えず…


いったい何をしに来たの?ハッタリと言い訳ばかりの勘違いプロ気取り女め。
そう言えたらどんなに胸がスッとしただろうか。
ろくに歌えないヴォーカル、ほとんどベースを触ったことのないベーシスト、マネージャーとは名ばかりのパシり。スタジオ経験ゼロ。これで『バンドを組んでいる』『ほとんどプロ』だなんてよく言えたものだ。

結局ムーニンは、「ワンランク上のレッスンがしたい」だの「最高の環境でしか歌わへん」だの言って帰っていった。ワンランク上どころか、幼児用コースにでも通うことをお勧めしたい。



この話には続きがある。
帰りの電車でマネージャーもどきのイクちゃんと一緒になったのだが、イクちゃんの口からとんでもない事実が語られたのだ。

「私、音楽が好きだからマネージャーになれたのは嬉しいんですけど、スタジオ代とかみんなのドリンク代とか結構かかるから大変で。私、まだ中学生だからバイトもできないしお金無くって、援交してなんとか出してるんです

おいおいおい、とんでもねーな。

わたくしは、プロとはどういうものなのか、マネージャーとはどういうものなのか、イクちゃんに説明した。給料も貰えないのに援交までしてジュース買ってやる必要は無いし、おかしいと。
イクは「そうですよね、マネージャー辞めようかな」と言っていたが、たぶん辞めないだろう。今の時点でまだ迷っているなんて、結局言い出せないまま流されるか、ある日精神的に壊れるか…