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言いたい放題な生息記録

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パルコの裏、線路脇で、ひたすら陸軍境界標石を探しました。
これがまた少し大変な作業なのです。軍と関係の無い標石も同じ形をしていますし、削れて文字が見えなかったり、ほとんど埋まっていたりしますから。


ちなみにこれは違います。マークも材質も、陸軍のものではありません。

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よく見えませんが、これも違います。

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「千」らしき文字が確認できます。ああ、これも違う。

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こちらもたぶん「千」ですね。

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これらも軍ものではありません。

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こちらも『千』の文字。千葉の千でしょうか?

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「境界標」とハッキリ読み取れますが、陸軍の文字は無し。

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やっと発見いたしました!これこそが、陸軍境界標石です。
残念ながら何の文字も読み取れませんが、こちらは他と石材が違うので、陸軍境界標石だと断定できます。

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その後も探しましたが、見つからず。
標石探しはとりあえずここでお終いにします。

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八坂神社へ向かいます。
道路脇には蔦の這うシートが。土が舞うのを防止するためにかけられたシートなのでしょうけれど、私にはゲリラ戦の待ち伏せ用か何かに見えてしまう…

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この八坂神社は、大正13年に津田沼駅前の商店街で祀られていたお稲荷様を、昭和50年にここへ移転したものだそうです。

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私の目当てはこちら。
「皇紀二千六百年紀念」と刻まれた国旗掲揚台です。

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いつものことですが、手水に水無し。

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狛犬は、まるで飛びかかってきそうなポーズと表情でした。

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登山紀念碑のほうは、裏面に「大正14年7月」とありました。

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これは何でしょう?宇宙っぽさを感じてしまいます。

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境内の木に、サルノコシカケが。

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さて、次の目当てへと探検を続けます。

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葛羅の井戸より先に進み、妙見神社へ。
日が暮れてきたので、今日の探検はここを見ておしまいにします。

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寺内妙見神社
御祭神:天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
 
神社の前面を北から南へ帯状に伸びる地域は、最近までは水田地帯、往古には海からの入江で白砂青松、景勝の処で台地の上では、古代から人々が生活していたと推察される。
この地は昔から「寺内」と称し、西に「本郷」、東に「印内」と間近に各々独立した村落が形成されたのは、すでに鎌倉時代に溯ると思われる。印内は「院内」で寺院内の意であり、それぞれに別の寺領域の中心であった。
御祭神は古事記神代巻の初めに載る、天地創造、萬物造化の祖神である。
また北辰星宿を司る御神威により、妙見大神と奉称し、安産子育て、方除け、学業増進、生業繁栄の御神徳を有せられる。
古来下総国の豪族”千葉氏”の尊崇した神で、其の勢力が台頭した中世期に、此の里の鎮守として篤信の士により奉斎されたと考えられる。
近年枯死した境内老松の年輪が五百年余を示し、その経緯を裏付けている。
この附近、二子、本郷、西海神等にも元から妙見社の小祠はあったが、(船橋市史・前篇)特に「妙見」を神社名として奉祀するのは当神社のみであり、そこに深い由緒の係わりが偲ばれるのである。
 
御本殿 一間社流れ造り 江戸時代末期の造営
昭和四十七年、奉賛会の総意により拝殿の再建をはじめ社務所の新築、手水舎、狛犬、灯籠、鳥居、石段、参道等を竣工し旧状を一新した。
 
例祭 十月九日 新嘗祭 十一月下旬に執り行われる
今上陛下御在六十年の佳年を期して茲に当神社の御由緒の一端を記す。
昭和六十一年十一月吉日 宮司 千葉博 妙見神社奉賛会

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手前の鳥居は昭和47年10月に建てられたもの。

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奥の鳥居は明治36年10月に建てられたものです。

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この階段を上る余力が残っていて良かった。(今日はほとんど自転車移動だったので)

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伊勢神宮参拝記念碑。

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急な階段で心臓が破れそうになりながらも、到着です。

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階段を上がってすぐ右側に、昭和52年1月建之の『御神木跡碑』がありました。
直径約六尺、年輪六〇〇年を数える巨松を御神体としていたそうですが、枯死してしまったとのこと。

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昭和47年10月建之の狛犬は、少しアニメ風で、狛犬というよりもシーサーのような愛嬌があります。まあ、狛犬もシーサーも同じ獅子なのですが、なんとなくね。

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手水は萬延元年正月に奉納されたもの。
こうしてちゃんと年月日の記載があると、当時の人々をここに思い浮かべることができるので楽しいです。

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紀念碑は読みにくかったので、またいつかじっくり。

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こちらは、年月日が読みにくいのですが、大正8年10月2日でしょうか?

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こういう場所にゴミを捨てる人に、それなりのバチがちゃんと当たっていますように。

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こちらにもゴミが浮いていました。

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灯篭は、最初の鳥居や狛犬と同じく、昭和47年10月建之。

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木の色が渋くて素敵な、一間社流れ造りの本殿です。
先程の掲示板に、江戸時代末期の造営とありましたね。 

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先程見た御神木跡碑、そこに立っていたであろう巨松が、拝殿の中にありました。
できればもう少しちゃんとした場所、奥の神殿に置いてほしいような…

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本殿から隠れるかのように、境内奥でひっそりと佇む石塔群を発見しました。

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この一匹の狛犬が、なんとも良い表情をしているのです。
どこからどうやってここに置かれたのか、パートナーはどこへ行ってしまったのか、様々な思いが巡ります。

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安政5年4月建之と見られる疱瘡神がありました。
他は劣化が激しいため、不明です。

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こちらの石祠は扉が崩壊していますが、側面の『明治27年1月31日』という文字は無事でした。

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後ろからも撮りました。
また訪れてじっくり観察したいです。

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病院の帰り、まだ日が暮れるまで時間があったので、探検を始めました。
まずは14号沿いの勝間田公園へ。

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先日、ゲエロの池にかつては美しい湧水があったと知り、感動したわけですが、ここもそういった場所なのです。
湧水が多かった頃、ここは『本郷溜』と呼ばれ、農業用の溜池として使われており、江戸時代後半に『勝間田の池』と呼ばれるようになったそうです。
広い公園の奥に、すっかり枯れた池があるのですが、それは池跡の一部。私が子供の頃は、まだ少し水があってタニシのような貝がたくさんへばりついていた記憶があります。

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また、昭和30年頃、池の浚渫の際には、壷(5世紀前葉の五領式土器)が二個発見されたそうです。
祭祀用に置かれたものと憶測されています。

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公園内の石碑を見てみます。

こちらは歌人、大橋松平(船橋で亡くなった)の碑文。
 『しげやまの尾根をはひゆく雲みれば晴れたるかたに移りつゝあり』

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こちらは月刊俳誌『新葉(のちに鴫と改名)』の創刊者、田中午次郎の句碑。
『秋刀魚焼く 羅漢のごとき 吾が貌見よ』

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公園内には子供達がちらほら遊んでいましたが、遊具で遊ぶよりも、ゲーム機を持ち寄って一ヶ所に固まっている子が多かったなあ。

今日、また行田を歩きました。
武蔵野線沿いにはまだ畑が多く残っていますので、きっと何か古い物があるはず。

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さっそく畑の脇で道路境界石を発見しました。
『海軍』の文字がしっかり入ったものを探しているのですが…

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この二つは、埋まりすぎていて確認できません。

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武蔵野線のガード下に、資材置き場のような小屋がありました。

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なぜか松葉杖が立てかけてありました。

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道の両脇にあるもっさりスポットが気になるので行ってみます。

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左側には瓦礫の山がありました。
べつに軍とは関係無く、ただの石材置き場でした。

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あ、白猫。

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右側には、背高泡立草(セイタカアワダチソウ)が生い茂る中、ブロックやら何やらがたくさん。
その奥にも猫が数匹いました。

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薄(ススキ)もたくさん生えています。

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そして、畑の脇には秋桜(コスモス)も。
モンシロチョウがひらひらと飛んでいました。

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まだ気になる場所がたくさんあるので、また近々この辺りを探検したいと思います。 

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