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言いたい放題な生息記録

タグ:石仏

葛羅の井戸より先に進み、妙見神社へ。
日が暮れてきたので、今日の探検はここを見ておしまいにします。

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寺内妙見神社
御祭神:天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
 
神社の前面を北から南へ帯状に伸びる地域は、最近までは水田地帯、往古には海からの入江で白砂青松、景勝の処で台地の上では、古代から人々が生活していたと推察される。
この地は昔から「寺内」と称し、西に「本郷」、東に「印内」と間近に各々独立した村落が形成されたのは、すでに鎌倉時代に溯ると思われる。印内は「院内」で寺院内の意であり、それぞれに別の寺領域の中心であった。
御祭神は古事記神代巻の初めに載る、天地創造、萬物造化の祖神である。
また北辰星宿を司る御神威により、妙見大神と奉称し、安産子育て、方除け、学業増進、生業繁栄の御神徳を有せられる。
古来下総国の豪族”千葉氏”の尊崇した神で、其の勢力が台頭した中世期に、此の里の鎮守として篤信の士により奉斎されたと考えられる。
近年枯死した境内老松の年輪が五百年余を示し、その経緯を裏付けている。
この附近、二子、本郷、西海神等にも元から妙見社の小祠はあったが、(船橋市史・前篇)特に「妙見」を神社名として奉祀するのは当神社のみであり、そこに深い由緒の係わりが偲ばれるのである。
 
御本殿 一間社流れ造り 江戸時代末期の造営
昭和四十七年、奉賛会の総意により拝殿の再建をはじめ社務所の新築、手水舎、狛犬、灯籠、鳥居、石段、参道等を竣工し旧状を一新した。
 
例祭 十月九日 新嘗祭 十一月下旬に執り行われる
今上陛下御在六十年の佳年を期して茲に当神社の御由緒の一端を記す。
昭和六十一年十一月吉日 宮司 千葉博 妙見神社奉賛会

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手前の鳥居は昭和47年10月に建てられたもの。

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奥の鳥居は明治36年10月に建てられたものです。

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この階段を上る余力が残っていて良かった。(今日はほとんど自転車移動だったので)

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伊勢神宮参拝記念碑。

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急な階段で心臓が破れそうになりながらも、到着です。

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階段を上がってすぐ右側に、昭和52年1月建之の『御神木跡碑』がありました。
直径約六尺、年輪六〇〇年を数える巨松を御神体としていたそうですが、枯死してしまったとのこと。

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昭和47年10月建之の狛犬は、少しアニメ風で、狛犬というよりもシーサーのような愛嬌があります。まあ、狛犬もシーサーも同じ獅子なのですが、なんとなくね。

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手水は萬延元年正月に奉納されたもの。
こうしてちゃんと年月日の記載があると、当時の人々をここに思い浮かべることができるので楽しいです。

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紀念碑は読みにくかったので、またいつかじっくり。

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こちらは、年月日が読みにくいのですが、大正8年10月2日でしょうか?

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こういう場所にゴミを捨てる人に、それなりのバチがちゃんと当たっていますように。

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こちらにもゴミが浮いていました。

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灯篭は、最初の鳥居や狛犬と同じく、昭和47年10月建之。

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木の色が渋くて素敵な、一間社流れ造りの本殿です。
先程の掲示板に、江戸時代末期の造営とありましたね。 

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先程見た御神木跡碑、そこに立っていたであろう巨松が、拝殿の中にありました。
できればもう少しちゃんとした場所、奥の神殿に置いてほしいような…

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本殿から隠れるかのように、境内奥でひっそりと佇む石塔群を発見しました。

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この一匹の狛犬が、なんとも良い表情をしているのです。
どこからどうやってここに置かれたのか、パートナーはどこへ行ってしまったのか、様々な思いが巡ります。

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安政5年4月建之と見られる疱瘡神がありました。
他は劣化が激しいため、不明です。

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こちらの石祠は扉が崩壊していますが、側面の『明治27年1月31日』という文字は無事でした。

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後ろからも撮りました。
また訪れてじっくり観察したいです。

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先程の馬頭観音群から少し歩いたところで、墓地を発見しました。
一見ただの墓地ですが、手前に…

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ボロボロで文字が読めませんでしたが、境界石です。

そしてその少し手前横には…???読めません。

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隣は大正時代の馬頭観音でした!

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この二基の後ろにも何かが二基ありました。

まずはこちら、両側には、月山、羽黒山の文字がくっきりと。ということは、中心は湯殿山の、出羽三山です。

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側面には、文化七寅牛天十月の文字が。

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こちらは。。。。。後で調べます。

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側面は十一月吉日だけ読めました。

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反対側の文字は、安永六…たぶん丁酉年、二月二日か三日でしょう。

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近くにモグラの穴が!

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このキノコ付き切り株も、朽ちた感じが凄いです。

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綺麗に整備されたごく普通の墓地の横には、まだ昔のままになっているお墓もいくつかありました。

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中山競馬場の正門前広場、パドック側に、馬頭観音碑があります。
競走馬と中山競馬場の安全を祈願する石碑です。

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この碑は有名で、いつもたくさんの人々が訪れ、競馬を楽しみながらも手を併せています。
お花やお線香、様々なお供え物など、途切れることがありません。


しかし、競馬場の外にある馬頭観音群の存在を知る人は、とても少ないです。
場所はここ。競馬場の裏、住宅街の一画にあります。

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拡大しました。ちょっとわかりにくいですが、不思議な作りです。
競馬場からここだけくり抜き、壁で遮断したような…

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さっそく行ってみました。

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ここにある19基の馬頭観音は、江戸~昭和に作られ、この辺りに散在していたものを集めたものとされています。

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確かに、戦前に建てられたものは、この辺りが農村だった頃に収穫物を運搬するなど、農業へ貢献した馬たちのために建てられたものです。
当時、この辺りは馬持ちの農家が多く、馬たちはとても大切に育てられたといいます。

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しかし、戦後に建てられたものは、戦争で犠牲になった馬たちのためでしょう。
以前(西船探検14で)戦争時代にたくさんの馬が血清製造の犠牲になったことについて少し触れましたが、まさにそんな馬たちの供養のためです。

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中山競馬の場の起源は、明治39年に千葉県東葛飾郡明村大字岩瀬(現在の松戸市大字岩瀬)に開設された松戸競馬場です。
大正8年8月10日、松戸競馬場は陸軍省に買収され、陸軍工兵学校の開校に伴い大正9年に移転。中山競馬倶楽部と改正し、行徳海岸にて競馬場の整備が始められました。
ところが、完成間近だった競馬場は大正12年に関東大震災の大津波で、壊滅的な打撃を受けてしまいます。
競馬場は昭和2年に東葛飾郡葛飾村大字古作(現:船橋市古作)に移され、現在の場所へ定着しました。

昭和17年、競馬開催中にドーリットル隊による空襲(空母ホーネットから飛び立ったB-25によるアメリカ海軍からの初の日本本土爆撃)が行われます。
競馬開催の一時停止が閣議で決められ、昭和19年3月に閉鎖。陸軍に接収され、敷地に陸軍軍医学校中山出張所、立川航空隊(軍需品集積所)、東部第5部隊駐留地が建てられる他、軍管轄の自耕農場などとして活用されました。

陸軍軍医学校中山出張所では、御役御免となった競走馬などに破傷や壊疽の菌を注射して抗体を作り、その血を抜いて血清を作っていました。負傷した兵士の手術で使うためです。
兵士が重傷の場合は、手足を切断せざるをえません。その際、破傷風やガス壊疽にならないように、血清が作られたのです。

馬の採血や死体処理は衛生兵が行っていましたが、人手が足らず、船橋中学校(現在は県立船橋高校)や、市川中学(現在は市川学園高校)の生徒が駆り出されました。

その後、米軍から返還され、中山競馬場として再開したのは昭和22年のことでした。

また、発掘調査で古代~中世の馬骨や馬具が見つかったのもこの辺りだそうです。


それでは、一基ずつ左手前からじっくり見ていきます。

一番手前の石塔は『馬頭観幸音光力』『大久保清造』と読めます。

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こちらの馬頭観音は文字が読み取れません。

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次の二基も同じく年代不明。

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こちらは劣化が少なく、明治十三年三月十五日とハッキリわかります。

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横には、石井喜右エ門とあります。

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こちらは明治十四巳年十二月十九日。

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横には施主忠右エ門とあります。

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こちらには、『明治四十三年四月十八日死』の文字が。

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こちらは石がボロボロでわかりません。

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中央の大きな三基は部分的に修復されています。
これは左の馬頭観音。『る』のような文字は『馬』です。

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昭和九年十二月…ああっ!珍しく馬の名前も彫ってあります!
若千代という名前の馬、どんな馬だったのでしょう。

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中央の大きな三基、真ん中。

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明治三十八年三月十五日とあります。

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中央の大きな三基、右。

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昭和四十九年二月とあります。野平省三家内一同建之。
野平省三さんは、戦前は騎手、戦後は調教師として活躍なさった方です。
調べたら『それぞれ騎手・調教師の野平富久は長男、野平祐二(騎手顕彰者)は次男、騎手の野平幸雄は三男である』とのことでした。

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右側に並ぶ馬頭観音を奥から見ていきます。 
昭和六年十月建之。

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こちらは大正十五年七月と読めますが、左下に『青馬碑』の文字が!
青、つまり、毛色の黒い馬だったということがわかります。

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こちらは明治四十四年八月。

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こちらは明治十六年十二月廿七(二十七)日。

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慶應四辰年六月。

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嘉永五子年八月十九日。

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万延元年四月四日。デザインを見る限りは馬というより牛のためのようです。

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こちらは大正七年二月。この中で最も小さな馬頭観音です。

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以上です。

全てに手を併せ、探検を続けます。

特集したかったので、前回載せなかった場所があります。
それがここ。

クリーニングから3


昔、何度か行ったことがあるのですが、当時は家々が並ぶ奥にぽっかりと異空間のような荒地があり、そこにいくつもの石仏か何かがあったはず。不気味なほど鬱蒼としていて…
こんな感じで↓(なんて雑な絵!)

いい


記憶を頼りに行ってみたら、あれっ?かなり整備されてる!
でも、普通のお墓しか見えません。私が探している石仏群はいずこへ?

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一番奥まで行ったらありました!すごい数です!

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昔見た時と違って、かなり整頓されて一か所に集められていました。
昔のほうが味があったけれど、こんなに大切にされていて嬉しいです。

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立派な石碑もありました。
文字をここに書き起こしてみます。

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大日山浅間院正覚寺 跡墓地整備の碑

この地にあった正覚寺は、「大日山浅間院正覚寺」と称し、当山野村に古くからあった寺である。
明治四十一年に「深掘山 延命院地蔵寺」と合併して「正延寺」と称し、山号も「山野山」と改め現在に至っている。
正覚寺の堂字は江戸時代に焼失してしまい、墓碑百十数基が残っていたが永年整備される事もなく荒れ果て、幽かに「正覚寺」の跡を窺い知るのみであった。
茲に平成七年住職並びに関係者が相計り、正覚寺の歴史を永く留め併せて正覚寺檀徒の祖供養のために、改修整備を発願する、重ねて石井明治氏より隣地を御寄進賜わる。
まさに百年余の時を経て改修整備事業の完成を記念し更には各家先祖菩提の冥福を祈念してこの碑を標す。

平成八年十一月吉祥日 山野山正延寺 第四十世宥祥 敬白

(以下は関係者、世話人、協力者の名前)


並びにあるのは『正覚寺歴代並檀家祖霊供養之碑』です。

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この碑から、初代の住職は年代が不詳ですが、二代は正保四年とわかりました。
正保から、延宝、元禄、宝永、享保、元文、宝暦、明和、天明、寛政、文化、天保、安政、大正、明治へと、物凄い歴史を感じます。


これも気になったので、撮っておきました。敷地内にあった焼却炉です。

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いやあ、それにしても、昔見たあの場所がこんなに古くから歴史のある場所だったなんて、整備されて石碑が建たなければわからないことでした。
行ってみて良かったです。

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