⚠️メンテナンス中⚠️狭いベランダは我が森ぞ

言いたい放題な生息記録

タグ:跡地

『船橋探検:1』の冒頭で触れたように、昔の船橋には遊郭を集めた一画がありました。
その一画は船橋新地と呼ばれ、戦後も赤線として栄えたのです。

唯一残っていた妓楼跡が2009年の2月16日の火災で全焼し、かつては5軒ほどあったストリップ劇場のうち唯一残って営業を続けていた若松劇場も2013年8月末に閉館。
闇扱いの古きエロが消え去り、市としてはクリーンで都会的な船橋を豪語できるようになったかもしれませんが、古きエロは芸術面も兼ね備えた味わい深いものだったはず。それらを文化遺産としてしっかり残し、現代的なくだらぬ店のほうを一掃するほうが、よっぽど街のイメージが良いのですが。

今回は、その赤線辺りを紹介します。


さて、なんの変哲も無い道路を歩いていると、突如ソープランドの看板が。

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こんな所に絶対無いだろう…と思って曲がると、ありました!ソープランド『ミネ』です。
ウェブ上に求人募集があったので、たぶん営業していると思うのですが…
万が一ここまで消えてしまったら寂しいなあ。

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こちらは『居酒屋・やきとり正ちゃん』です。『ホッピーハウス第一号店』の看板があります。
現在も営業しているのでしょうか?

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廃屋を見つけると、以前はどんな建物だったのか気になります。

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こちらは昔、宿場だったようです。

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ほとんど消えそうな文字ですが、『一松』とあります。

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しばらく歩いて、有名な『割烹旅館玉川』も見てきました。
大正10年創業。温泉もあり、国登録有形文化財に指定されています。

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昭和10年には、太宰治が船橋に引っ越してきて、最初の20日間はここに泊まったそうです。

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ちなみに、太宰治の記念碑と夾竹桃(太宰が船橋の借家で玄関に植えたものを移植したもの)、青桐(同じく借家の庭に植えたもの)は、船橋市民文化ホールの一画にあります。

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『この夾竹桃は、太宰治(明治42年~昭和23年)が、昭和10年夏から昭和11年秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1,928番地(船橋市宮本1丁目12番9号)に借地住まいをしていた時に、その敷地内に植えられたものですが、昭和57年12月、その敷地が整備されることになり、改めてこの地に移植された。 
太宰治は、当時、「めくら草紙」の中でこの夾竹桃を植えた時の様子を書いておりますが、戦後の作品「十五年間」では、次のように、この夾竹桃に対する自分の愛着ぶりを書き残しました。 

私は千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。 私はそこで「ダス・ゲマイネ」といふのや、また「虚構の春などといふ作品を書いた。 
どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい。 玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ。庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。』
 
昭和58年3月 船橋市教育委員会 船橋中央ライオンズクラブ 寄贈

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『たのむ!もう一晩この家に寝かせてください。玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない』

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付近には薔薇やブラシノ木、ザクロなどもあります。

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またしばらく歩いていたら、廃屋を発見しました。

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京成船橋駅の裏通り。

この『インマヌエル船橋キリスト教会』は、終戦の翌年に創立されました。
子供の頃、ここから教会のキャンプに行ったことがあります。大人になってからも、クリスマスのキャンドルサービスに参加したことが。

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って、工事中?!まさか無くなってしまうんじゃないよね?!
ウェブサイトがバグってしまい、情報わからず。

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こちらは『稲荷神社』です。
様々な店舗が犇めき合う狭い路地に、突如現れます。

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なんと、鳥居の前で国威宣揚の石柱を発見しました!
下のほうが埋まってしまっていますが、陸軍中将が揮毫した石柱だということがわかります。
お名前は、谷口元…埋まっているし削れているので読めません。
陸軍大学卒業者名簿を見る限りは、谷口元治郎(卒業階級・砲兵大尉、最終階級・中将、最終軍職・第108師団長、駐在・仏、陸士・16期)だと思います。
石柱の裏には、『紀元二千六百年』とありました。

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稲荷神社は、寛政・享和(1789~1803)頃に建てられました。
御祭神は、宇賀魂神、稚産霊神、大己貴神となっています。

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古き風景の中、一対のおきつね様だけが、真新しく真っ白に輝いています。

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横の木にサルノコシカケを発見。

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細道を抜けて歩いていたら、稲荷神社に関する石碑がありました。
文字が少し削れていますが読んでみます。

『お稲荷さんは、農民には豊作を祈る神、商人には商売繁盛を祈る神であり、いわば非常に守備範囲の広い神様です。江戸時代になると、家々の屋敷神として爆発的に広まり、本社の伏見稲荷から分けて祭られました。このお稲荷さんも、元は地元のある家が伏見から分けてもらったものと伝わりますが、効験あらたかなので、地区の守り神として信仰されるようになりました。そのため、この神社の脇の道は稲荷横丁と呼ばれるようになりました。多くの神様は、現世のご利益を祈ってお参りされますが、特にお稲荷さんは幸福をもたらす神の代表的な存在です。』

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近くにも小さなお稲荷さんが。
鳥居はかなり古そうですが、石祠は新しいです。

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いざ、春日神社(旧村社)へ。
何度も行ったことのある神社ですが、改めてじっくり見てみます。

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この神社、えっ?ここから入るの?って感じですが、建物と建物の間に参道があるのです。

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参道の入口脇に、『国威宣揚』の石柱があります!

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裏には『昭和十五年一月一日建之』

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ここからは、春日山と呼ばれる丘。
ちょっとした山登り感覚で拝殿を目指します。
1300坪の境内には、松やスダジイなどの大木がいっぱいで、広い鎮守の森です。

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昭和3年11月10日に奉納された昭和の獅子山の逸品。
狛犬マニアの方々には人気で、クッキーモンスター狛犬とも呼ばれています。

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土地改良記念である『かつしか田園の記』の石碑。
裏には、万葉集14-3386が刻まれています。

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『鳰(にほ)鳥の 葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを外(と)に立てめやも』

鳰鳥はカイツブリという水鳥の古名で、葛飾を形容する枕詞です。
葛飾地方は早稲の産地であり、収穫も早く、最初の収穫米は神様に捧げられました。つまり、葛飾早稲を饗すとは、その神事のこと。
その日は身も心も清く保たなければなりません。男女の触れ合いなどもってのほか。
しかし私は、恋人が家に来たら外に立たせておくことなどできない…そんな内容です。

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拝殿には賽銭箱がありません。
この拝殿は昭和38年8月12日に火災で焼失した後、昭和43年11月に再建されました。
神社自体はかなり古く、いつからあるのか不明ですが、元は違う場所にあったものが熊野神社とここで合祀した際に村社になったとのこと。文献には享保10年と記録文があるそうです。

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拝殿の裏に祠があるのですが、ブロック塀で囲まれています。
御祭神は春日大神(カスガノオオカミ)とのことですが、何も確認できません。
ちなみに、隣には緑地があります。以前は図書館でした。もっと昔は共同墓地だったそうです。

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参道はわりと最近整備されて歩きやすくはなっていますが…

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周辺には大木の根っこがたくさんあるので、躓かないように注意が必要です。

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手水には、明治七十六年十月と刻まれていました。

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拝殿の斜め前には、境内社の石祠が並んでいます。

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こちらは何年のものかわかりませんが、三峰神社。

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こちらは境内社名が全くわからず。側面の文字もほとんど読めませんが、安政八年でしょうか?

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こちらは山王大権現、側面には天明七丁未とあります。

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こちらは全くわからず。

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昭和43年建立の、春日神社社殿新築記念碑です。

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『朝に袖ヶ浦の白帆を送り、夕に松梢の月を迎えること幾百星霜…』
近々全文書き写します…

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何年か前に隣の緑地を撮った時の写真があったので、少しだけ載せておきます。
今では猫が何匹もいるのですが、この頃は一匹もおらず。

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我が探検はまだまだ続きます。

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廃墟を発見しました。
船橋行田住宅、合計9棟あります。

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少し進むと武蔵野線にぶつかりました。

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ここで埋まった石柱をみつけましたが、▽って何のマーク?

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この辺は、とにかく歩道が狭いし草ボーボーです。自転車を押して歩くのも無理があります。
かといって車道に出たら轢かれるでしょう。

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なんとかこの辺りまで進みました。

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くま!?

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わっ!またあった! 

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円を一周し終えたので、矢印の通りに細道を抜け、円の斜め下の四角を目指します。
雷電や零戦の部品を作っていた軍事工場、日本建鐵の跡地です。
昔は四角の中全てが日本建鐵の敷地でした。

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矢印の細道を通り抜けると、目の前にはマンションと駐車場がドドーン。
日本建鐵跡地の、ほんの一部です。

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線路の方へ進み、四角の角を発見。四角の中にはサンランド船橋というゴルフ練習場があります。
(地図と写真の向きが合わずすみません)

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しばらく進み、交番横でまた角を発見。

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次の角へ向かう途中、イオンモールの駐車場の広さに圧倒されました。
そして、その隣には、こちらもまた広大な三菱電機グループの敷地が。
ここがかつて日本建鐵本社があった場所であり、ほとんどが縮小・解体された中、唯一残っている敷地なのです!

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門を入って左側にあった工場棟も撤去され、一面に緑が。
以前はここに『日本建鐵株式会社・通用門』という表札が残っていましたが、外されています。

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ちなみに、この向かい付近にあった日本建鐵社宅の2棟4世帯が、昭和19年12月20日夜の空襲で焼失しています。
船橋市で建物の被害が出たのは、これが最初だそうです。


 <日本建鐵について>

四角く区切られた土地は、昭和16年に三菱地所が買収したものです。
当時、日本建鐵は三河島などで軍艦の防火鎧扉や大型艦船攻撃用爆弾、爆弾投下器などの軍需用品を作っていました。
買収には、三菱地所が日本建鐵の新工場用地を買収することで、日本建鐵の持つ軍需関係の技術を活用する狙いもあったようです。
工場では、三菱系の技術陣も迎えられる中、日本建鐵の本格軍需工場としての生産が行われました。

昭和16年から18年、この時代は東京等から船橋市に移転した機械工場などが、軍事工場に指定されました。
同時に大勢の労働者が流入し、船橋市の人口は急増します。
昭和12年(日華事変勃発時)に4万3000人だった人口は、昭和17年には6万人余りに急増。その後、疎開者集落ができたこともあり、昭和21年には7万7000人に達しています。

日本建鐵の船橋工場も、戦時中は日本海軍管理下の『皇国1824工場』という名前になりました。
学徒動員された大量の学生を含め、最盛期には2万人もの人が三交代制で働き、米軍爆撃機B29の迎撃用局地戦闘機『雷電』(三菱製)や、零戦のエンジンやエンジンカバー、エンジンクーラー、銅パイプなどの部品を製造しました。
そのため、爆撃やグラマン機の機銃掃射を度々受け、近隣住民を含め多くの犠牲者が出たとされています。

昭和19年12月20日夜の空襲では、周辺住宅への空爆被害があったものの、工場自体への被害は軽微だったので、戦後も操業を続けることができました。
朝鮮戦争での特需に潤う時期もありましたが、一度は会社整理、工場用地も一部売却し、規模を縮小。その後、建材事業から撤退し、環境事業や不動産事業に再編、三菱の家電製品の生産などを行う形になりました。

そして、平成17年5月、日本建鐵は三菱電機の完全子会社となり、今年の1月には会社を清算されました。

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google maps にちょっと前の画像が表示されたので、更新されてしまう前に載せておきます。

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しばらく進み、左手の船橋市飛ノ台史跡公園博物館を通り過ぎます。

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そこからすぐに、また四角の角を発見。
すっかり日が暮れてしまいました。

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ひたすら進んで、ついに最後の角へ辿り着きました!
セブンイレブン横の公園前、ちょうど植え込みの部分です。

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途中でバッグの紐がちぎれ、大量のどんぐりをぶちまけそうになりましたが、とても楽しい探検でした。
どんどん開発が進み、田畑の多くがマンションやアパートになり、古くからあった建物も消えゆく方向にある中、貴重な痕跡をいくつか発見できて良かったです。
行ってみたくなった人は、とにかく交通に気を付けてください。

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船橋海軍無線電信所跡地に行ってきました。戦争遺跡です。
昭和16年12月2日午後5時30分に、真珠湾攻撃実行の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信した事で知られています。

ニイタカヤマ(新高山)とは、日本領だった台湾の玉山(標高3,952m)のことです。当時の日本の最高峰でした。
一二〇八は12月8日のことなので、この暗号は『12月8日午前0時をもって真珠湾攻撃を開始せよ』という意味。

大正4年に旧海軍の無線基地が完成、昭和16年頃に長短波用の大アンテナ群が完成、そして昭和46年に全て解体されましたが、直径800mの円である独特の地形は今もそのまま残っており、ミステリーサークルとも言われています。

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ちなみに、最近行った①防衛省の宿舎、②大六天神社、③八幡神社、④鉄道・運輸機構の宿舎、のすぐそばです。

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<以下、引用>

無線関係の機器一式は、ドイツのテレフンケン社製のものが採用され、ジーメンス社に発注が行われた。
着工は1913年。しかし、翌1914年に第一次世界大戦が起こり、日本がドイツに宣戦布告をしたことから、ジーメンス社の技術者が図面を焼却して帰国してしまった。
そのため、工事は困難を極めたが、1915年4月には開所式が行われ、同年7月にはハワイとの間で通信試験に成功。8月より正式に軍用通信が開始された。
1916年には逓信省の通信所が併設され、大相撲の結果などを外国航行船舶等に乗り組み、日本を遠く離れていた船員達に知らせ喜ばれるなど、民間向けにも利用されたという記録も残っている。
ハワイの無線局と日米間通信が1924年まで行われたが、中でも1923年に起こった関東大震災の際には、銚子無線電信所と共に通信が壊滅状態になった東京都心の被害情報を、横浜港に停泊中の船舶からの打電を受信して新聞社が集まる大阪市など国内外に発信、救援活動に多大な貢献をした。なお、この出来事は船橋の名を広く世界に知らせるきっかけとなった。
また同年、霞ヶ関の海軍省内に受信所が置かれたため、名称が『海軍無線電信所』から『海軍無線電信所船橋送信所』に改められた。
昭和10年代に建て替えられた鉄塔の高さは、約60メートルから200メートル近くあるものもあり、ランドマーク的な役割を担い船橋市民(特に西船橋周辺の地域の住民)に親しまれた。
戦後は進駐軍が接収し1966年に返還されたが、1971年5月19日から解体が開始された(1972年まで)。


さてさて、まずは行田公園へ。

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東側を少しだけ見ました。
マチバシイやケヤキなど様々な樹木があり、サイクリングロードをウォーキングする人や所々にある健康遊具で筋トレする人、芝生で遊ぶ子供達など、じつに平和な光景です。
春には花見をする人も多く訪れます。

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カラスの巣があるので見上げるのさえ危険という…

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目当ての物は西側にあるので、大きな歩道橋を渡って移動します。

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歩道橋の上から西側を見たところ。

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西側へ到着!目当ての物がありました。
船橋無線塔記念碑です。

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碑文
『ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げるニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年5月解体され栄光の歴史を閉じた。』

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中に入ると、左側に人工池がありました。

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入って左側の植え込みに、無線塔があった頃の写真が。

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入って真っ直ぐ進むと、花時計があります。
その向こうにある芝生で、近くの小学校のサッカー部員が練習中でした。

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公園内の日本庭園に行ってみます。

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コナラを発見。

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もちろんドングリを拾いました。

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猫!

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ここが日本庭園です。鴨が何羽も泳いでいました。

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もう少しじっくり見たかったのですが、日が暮れる前にまだまだ撮りたい場所があるので公園を出ます。


海軍無線電信所跡地とその周辺・2(海軍の痕跡を探そう!)へ続く

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