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言いたい放題な生息記録

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中山競馬場の正門前広場、パドック側に、馬頭観音碑があります。
競走馬と中山競馬場の安全を祈願する石碑です。

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この碑は有名で、いつもたくさんの人々が訪れ、競馬を楽しみながらも手を併せています。
お花やお線香、様々なお供え物など、途切れることがありません。


しかし、競馬場の外にある馬頭観音群の存在を知る人は、とても少ないです。
場所はここ。競馬場の裏、住宅街の一画にあります。

中山2


拡大しました。ちょっとわかりにくいですが、不思議な作りです。
競馬場からここだけくり抜き、壁で遮断したような…

中山3


さっそく行ってみました。

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ここにある19基の馬頭観音は、江戸~昭和に作られ、この辺りに散在していたものを集めたものとされています。

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確かに、戦前に建てられたものは、この辺りが農村だった頃に収穫物を運搬するなど、農業へ貢献した馬たちのために建てられたものです。
当時、この辺りは馬持ちの農家が多く、馬たちはとても大切に育てられたといいます。

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しかし、戦後に建てられたものは、戦争で犠牲になった馬たちのためでしょう。
以前(西船探検14で)戦争時代にたくさんの馬が血清製造の犠牲になったことについて少し触れましたが、まさにそんな馬たちの供養のためです。

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中山競馬の場の起源は、明治39年に千葉県東葛飾郡明村大字岩瀬(現在の松戸市大字岩瀬)に開設された松戸競馬場です。
大正8年8月10日、松戸競馬場は陸軍省に買収され、陸軍工兵学校の開校に伴い大正9年に移転。中山競馬倶楽部と改正し、行徳海岸にて競馬場の整備が始められました。
ところが、完成間近だった競馬場は大正12年に関東大震災の大津波で、壊滅的な打撃を受けてしまいます。
競馬場は昭和2年に東葛飾郡葛飾村大字古作(現:船橋市古作)に移され、現在の場所へ定着しました。

昭和17年、競馬開催中にドーリットル隊による空襲(空母ホーネットから飛び立ったB-25によるアメリカ海軍からの初の日本本土爆撃)が行われます。
競馬開催の一時停止が閣議で決められ、昭和19年3月に閉鎖。陸軍に接収され、敷地に陸軍軍医学校中山出張所、立川航空隊(軍需品集積所)、東部第5部隊駐留地が建てられる他、軍管轄の自耕農場などとして活用されました。

陸軍軍医学校中山出張所では、御役御免となった競走馬などに破傷や壊疽の菌を注射して抗体を作り、その血を抜いて血清を作っていました。負傷した兵士の手術で使うためです。
兵士が重傷の場合は、手足を切断せざるをえません。その際、破傷風やガス壊疽にならないように、血清が作られたのです。

馬の採血や死体処理は衛生兵が行っていましたが、人手が足らず、船橋中学校(現在は県立船橋高校)や、市川中学(現在は市川学園高校)の生徒が駆り出されました。

その後、米軍から返還され、中山競馬場として再開したのは昭和22年のことでした。

また、発掘調査で古代~中世の馬骨や馬具が見つかったのもこの辺りだそうです。


それでは、一基ずつ左手前からじっくり見ていきます。

一番手前の石塔は『馬頭観幸音光力』『大久保清造』と読めます。

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こちらの馬頭観音は文字が読み取れません。

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次の二基も同じく年代不明。

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こちらは劣化が少なく、明治十三年三月十五日とハッキリわかります。

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横には、石井喜右エ門とあります。

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こちらは明治十四巳年十二月十九日。

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横には施主忠右エ門とあります。

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こちらには、『明治四十三年四月十八日死』の文字が。

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こちらは石がボロボロでわかりません。

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中央の大きな三基は部分的に修復されています。
これは左の馬頭観音。『る』のような文字は『馬』です。

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昭和九年十二月…ああっ!珍しく馬の名前も彫ってあります!
若千代という名前の馬、どんな馬だったのでしょう。

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中央の大きな三基、真ん中。

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明治三十八年三月十五日とあります。

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中央の大きな三基、右。

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昭和四十九年二月とあります。野平省三家内一同建之。
野平省三さんは、戦前は騎手、戦後は調教師として活躍なさった方です。
調べたら『それぞれ騎手・調教師の野平富久は長男、野平祐二(騎手顕彰者)は次男、騎手の野平幸雄は三男である』とのことでした。

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右側に並ぶ馬頭観音を奥から見ていきます。 
昭和六年十月建之。

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こちらは大正十五年七月と読めますが、左下に『青馬碑』の文字が!
青、つまり、毛色の黒い馬だったということがわかります。

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こちらは明治四十四年八月。

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こちらは明治十六年十二月廿七(二十七)日。

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慶應四辰年六月。

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嘉永五子年八月十九日。

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万延元年四月四日。デザインを見る限りは馬というより牛のためのようです。

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こちらは大正七年二月。この中で最も小さな馬頭観音です。

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以上です。

全てに手を併せ、探検を続けます。

事故から今日で30年です。
このタイミングで、123便に関する新たなニュースが出てくるとは。


123便は、相模湾上空でのトラブルの際に落ちたであろう垂直尾翼の大半やAPUを含む機体後部の部品が見つからないとされたまま、事故から1年10カ月後に調査が終了しています。
しかし、先月、ANNが情報公開請求で得た資料などから、相模湾の海底を調査し、123便の部品の可能性がある物体を発見しました。

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画像は、先月の29日、静岡県東伊豆町の沖合約2.5㎞、123便の推定飛行ルートの真下にあたる水深160mの海底で撮影された映像です。
発表を先月ではなく、事故から30年の今日にしたのは、意図的なものでしょう。

右側のパネル状の部分は四角形に見え、側面にある黒い部分には数字などが書かれています。
カメラとの距離などから調査にあたった専門家は、1.5mから2mほどの大きさではないかとしています。

当時、事故調査委員会のメンバーとして墜落の原因を調べた斉藤孝一さんは「この映像だけでは分からない。仮に航空機の部品だとすると、APU(機体後部にある補助エンジン)のまわりに取り付いているコントロールボックスといわれてるようなもの」としたうえで、123便の残骸である可能性を指摘しました。
斉藤さんは圧力隔壁の破壊という事故原因は変わらないとしたうえで、残骸が見つかれば事故の状況がより詳細に分かる可能性があるとしています。

国の運輸安全委員会はこの映像を見たうえで、「当委員会としてのコメントは差し控えさせて頂きます」としています。



さて、123便についての記事は、これで一旦書き終えさせていただきます。
転載したかった記事や貴重な画像は他にもあったのですが、いざ開くと『ページがみつかりません』『現在ご利用できません』『削除されています』とのことで、残念ながら紹介できませんでした。

123便について様々な説が飛び交うのも、不審な点が多すぎるゆえのことです。
真相を知る者達は、風化するまでだんまりを決め込んでやり過ごすつもりなのでしょうけれど。
せめて、以下の5点に明確な回答をいただきたいものです。

●現場で自衛官を射殺したのは誰でなぜか
●123便以外の残骸が現場に残っているのはなぜか
●自殺した自衛官が知人に託した写真に写っているのは123便の尾翼なのか
●特殊部隊の現場での行動について
●核について

このうち、『現場で自衛官を射殺したのは誰でなぜか』だけでも知りたいです。
これを明るみに出してくださったのはNHK速報でしたね。
「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。 続報が入り次第お伝えします」と。
続報は入らず、そのままになってしまったのは、規制がかかったからでしょう。


私自身、どんなに様々な情報を得ても、自分で納得のいく結論は出せていません。
全てが疑わしくもあり、信じるべきでもあり、といった感じです。
特殊部隊の存在や行動についても、戦時中の命を軽んじるかのような特攻命令や民間人を平気で巻き込める様を思えば、123便墜落事故の際に虐殺があったとしても何らおかしくありません。『まさかそんな酷いことはしないだろう』とは、今だから思えることです。

また、123便の件だけでなく、様々な事件や事故が『真相は闇の中』とされていることも忘れてはなりません。

123便が落とされた理由についてなど、いくつかのサイトから転載させていただきます。
読みやすく文章を整理(段落付け・句読点の追加や削除・文章の入れ替えや追加など)させていただきましたが、内容を捻じ曲げるような編集はしていません。



<他サイトより転載:1>

日本ですでに核兵器が製造されているという情報があります。
長野県の某所で密かに稼動する核施設でプルトニウムが取り出され、岩手県にある表向きは民間施設の軍需工場で原水爆を製造し(コバルト)、日本近海の孤島にある貯蔵施設に隠されているそうです。
しかもその原材料であるウラン精鉱(イエローケーキ)は北朝鮮から入っています。
その島の周辺では、近年魚の大量死といった不審な出来事が続いたため調査したところ、自然界に通常存在している値の実に600倍に相当する放射能が検出されました。
現在は民間人が立ち入り禁止になっており、近付くことさえできません。

この話を聞いて、私にはピンとくるものがありました。それは1985年8月に起きた、JAL123便墜落事故との関連です。
この墜落事故は実は、金属疲労による事故ではなく、自衛隊と米軍による戦闘の結果でした。
地元の人々が、何度も入山して航空機の残骸を拾い集め、25年以上にわたって調査を続けた結果、見つかったのは123便の機体だけでなく、米海兵隊所属のプロペラ機RC-130の着陸装置、地対空ミサイル・レッドアイの弾頭部分、黒い塗装で偽装した米空軍所属F-106の機体破片など、膨大な量の残骸だったのです。

123便が撃ち落された主な理由は、アメリカが誘導した円高に反対していた関西財界の大物4人を暗殺するためでした。
1985年8月、アメリカは日本に対して「円高にしてほしい」と申し入れましたが、関西財界の大物4人が強く反対し、再度の話し合いでも物別れに終わりました。
しかしこの事件には、実は他にも理由がありました。実は123便は核を積んでおり、国内で製造した核を積んで大阪に運び、大阪港からどこかへ積み出す予定だったというのです。

アメリカは、日本が密かに核兵器を製造していることを疑っており、その証拠を押さえたいと内偵していたところ、123便で運ばれるという情報をキャッチし、現物を押さえるために黒い塗料で偽装した所属不明機で123便を付け狙いました。
日本にしてみれば、アメリカを出し抜こうとして核兵器を秘密裡に製造していたので、現物を押さえられると非常に困ります。そこで機体もろとも海中に沈めてしまおうということになり、海上で米軍機に撃墜されるように仕向けたのでした。
 
しかし、123便の機長は優秀な人でした。日本政府は123便側には積み荷の中身を伝えておらず、ただ「貴重なものである」ということで、ベテランのパイロットの搭乗を要求。そこで自衛隊出身であり、飛行技術に長けた腕利きのパイロットである高濱雅巳操縦士をその任に就かせました。
彼は戦闘訓練を積んでいるので、米軍によって尾翼が破壊された時点で、すでに人為的攻撃であることに気づいたようです。すぐさま高度1000メートル以下の超低空飛行へと切り替えたのは、この高度ならレーダーに捉えられないからです。

その後、羽田にも降りられず、横田基地にも降りられず、海上着床の望みも絶たれ、行くあてを失った123便は、自衛隊機に誘導されて長野方面に向かいました。
しかし、自衛隊機には123便を助ける気など無く、米軍に嗅ぎつけられたことを知って証拠品である核を消すために、追って来ている米軍機だけではなく123便の乗客もろとも全てを消し去ろうとしました。
自衛隊機は123便を誘導し、待ち構えていた地上部隊がレッドアイで撃墜。こうして123便は、高天原山中にある御巣鷹山の尾根へと墜落したのです。
この時、123便とそれを追っていた米軍機の他、誘導した自衛隊機、NSA(米国家安全保障局)の偵察機、ロシア軍のスホーイも撃ち落とされています。

自衛隊は墜落後も徹底した証拠の隠滅を行いましたが、事故直後から「おかしい」と気付き、山に入って調査した人がいました。
この人物は、当日、山を縦走していた登山者らの目撃情報などを聞いて回り、その謀略の一端をつかんでいます。
それによると、登山者らが墜落現場近くに入った午前2時頃には、助けを求める人々の声が多数聞こえていたそうです。
しかし、現場は険しい斜面で獣道さえなく、近づくのは困難。そのうちヘリコプターが飛んできて、何かを撒いたとたん、それまで聞こえていたうめき声や物音がピタッとやみ、あたり一帯に静寂が訪れたそうです。
その後、地元住民らが生存者を救うために入山しようとすると、すでに自衛隊がバリケードを築いており、近付くことさえできなかったと証言しています。
 
なぜ最も近くにいた地元住民より、自衛隊が先に現場に到着していたのか。
それが事故ではなく撃ち落したものだということを、如実に物語っています。
この時、自衛隊は核兵器の残骸などの証拠品を回収していたのでしょう。

123便が墜落したのが8月で、その翌月の9月に、ニューヨークのプラザホテルで先進5カ国(G5)による合意がなされました。世に言う『プラザ合意』です。
アメリカを救うべく、円高ドル安への国際協調が取り決められましたが、日本は想定される円高不況を乗り切るために、金融緩和へと動きました。
つまり公定歩合を下げ、低金利政策を採用し、通貨供給量を大幅に増加させ、社会にお金がジャブジャブだぶつくようにして、景気後退を防ごうとしたのです。
その結果、日本は狂乱のバブル景気へと突っ走ることになりました。

その事実を突き止めるべく、調査している人の話を聞きましたが、彼は今も狙われています。
昨年も電磁波による攻撃を受け、車が大破したと話していました。街中を車で走っていると、急にドーンという衝撃が走り、事故を起こしたわけでもないのに車が突然破壊されてしまったのだそうです。
そうかと思うと守ってくれる人もいて、「つけられているな」と気付くと必ずと言っていいほどトラックが自分の車とつけている車の間に割り込み、逃がしてくれるそうです。


<他サイトより転載:2>

B氏の供述から推定すると、以下のような経緯が浮かび上がる。
’64年、青森六ヶ所村で日本で最初の原発が建てられたが、旧陸軍勢力が現在に至るも原発にしがみついているのは核武装のためである。
六ヶ所村にも地下に軍事工場があり、旧陸軍勢力は’70年頃には既に六ヶ所村で原爆を完成し、次いで’80年頃には神経ガス兵器を完成しているとのことである。
また、B氏によれば、日本が核兵器を保有していることは世界の軍事評論家の常識であるとのこと。

ところが、日本ではその実験をおおっぴらにやることはできない。では、どこで実験するか?
旧陸軍勢力は’85年に、青森六ヶ所村から羽田に原爆材料(イエローケーキ)や固体化した神経ガスを運び込み、日航機で大阪へ空輸しようとしていた。
管理が緩い大阪経由でどこかに空輸しようとしていたに違いない。
当時、イラン-イラク戦争の真っ最中で、当時の原爆技術がソ連から供与されていたことと考え合わせると、おそらくはイランへ空輸して、実際の戦争でその威力を実験するという目論みだったと考えられる。

ところが、旧陸軍勢力が青森で原爆を製造していることも、羽田から空輸しようとしていることも、米ソは掴んでいた
実際、事変当日の東京上空には米偵察機が飛んでいる。それを見たソ連も偵察機ミグ25を飛ばしている。
おそらく、米戦闘機が日航空輸機をミサイル攻撃し、損傷した日航機が超低空飛行で御巣鷹山上空にたどり着いた所で、日米ソ入り乱れた空中戦が繰り広げられ、何者かによって一瞬で全機撃墜されたらしい。

こんなことを仕出かした旧陸軍勢力とはどんな連中なのか?その勢力は瀬島龍三(元陸軍参謀)をはじめ中曽根(当時首相)など。
ところがB氏によれば、旧陸軍勢力の表向きのトップは瀬島龍三や中曽根だが、彼らが本当のトップではない。本当の頂点は『裏天皇』であり、太平洋戦争の頃から、裏天皇が実権を握っているとのこと。

しかし、その前に、もっと大きな疑問がある。
事変当時'85年という世界中が比較的平和な時代に、日本が米ソに戦争を仕掛けたわけである。
なぜ旧陸軍勢力は米ソ相手に空中戦をやらかしたのか?もちろん、勝ち目など全くない。彼らは一体何を考えているのか?

旧陸軍勢力が青森で原爆を製造していることも羽田から空輸しようとしていることも、米ソは掴んでいた。米ソに自分たちの動きが筒抜けになっていることは最初からわかりきっている話である。
実際、中曽根らの核武装工作を掴んでいた米は、これで決定的な中曽根ら旧陸軍勢力の弱みを握ったことになる。(世界法廷に訴えれば、中曽根らは間違いなく死刑になったはずである)
「今回の戦闘行為には目をつぶるから(生かしておいてやるから)、その代わりに日本の金をよこせ」とでも、中曽根は恫喝されたのだろう。
実際、この事変の1ヵ月後にプラザ合意があり、たちまち日本はバブル化し、それ以降次から次へとアメリカに財産を巻き上げられてゆく羽目になる。

しかし、米に戦争を仕掛ければそんな羽目に陥るのは、やる前から分かり切っている話である。にもかかわらず、なぜ仕掛けたのか?
この問題を解明するヒントは、御巣鷹山事変と同じ構図のもっと大規模な事件にある。
つまり、戦えば必ず手痛い敗北を喫するとわかっているにもかかわらず戦った事件。それは太平洋戦争である。

旧海軍は米と戦えば100%負けるとレポートを出していた。実際、後世から客観的に見てもその通りである。
にもかからわず、旧陸軍は日米開戦に踏み切り、その果てに大量の戦死者を出し、日本全国を焦土化させ、最後には原爆を落とされて悲惨な敗戦を喫した。
当時、米と戦ったらこうなることは日の目を見るより明らかであったわけで、この構図は、御巣鷹山事変と全く同じである。
 
一体、旧陸軍勢力は、太平洋戦争において何を考えていたのか?を解き明かすことがヒントになる。


<他サイトより転載:3>

ミサイル攻撃を受け損傷した日航機が超低空飛行で群馬県の御巣鷹山上空にたどり着いた所で、日米ソの最先端戦闘機が入り乱れて空中戦が繰り広げられ、最先端のステルス戦闘機をはじめミグ25など5種類の戦闘機が全機撃墜されたという、俄かには信じられない話です。
しかも、驚くべきことに日航機の積荷が原爆材料で、その上ミサイルの一部は核弾頭ミサイルだったので、御巣鷹山の墜落現場に放射能が撒き散らされたということです。

破壊され散乱した戦闘機の残骸物や日航機が運んでいた機密軍事物資など、多くの物的証拠が現場から収集されています。
核兵器に使用されるイエローケーキ、空対空ミサイルの信管に使われている部品、糜爛性毒ガスの原料BF4、当時最先端のステルス機やソ連のミグ25をはじめとする5種類の戦闘機の破片。更には、高度1万m上空を飛ぶ米大統領直属のU2偵察機の破片も発見されています。

当時、日本政府は墜落場所が特定できないという理由で救援を引き伸ばしたのですが、日本中を米軍や自衛隊がレーダーで監視している状況で、場所が特定できないはずがありません
その間に空中戦の証拠となる残骸物を回収しようとしていたらしいのです。
事件当日、自衛隊が怪しげな行動を取っていたことが目撃されていますが、全ての残骸を2日間で回収できるはずがないので、現在に至るも尚、御巣鷹山周辺で物証が発見されるとのことです。


<他サイトより転載:4>

特定秘密保護法の目的は、政治犯罪を隠匿することで政治家の無責任を合法化する法案である。
この法案の原案は前政権の民主党内で策定された。
 
2009年9月政権交代を果たした民主党は、非核三原則を謳ってノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作が、米国に対して、日本国内に核の持ち込みを許可していた密約の案件を引き継いだ。
岡田克也を中心とした調査メンバーは、密約文書が佐藤栄作の自宅から発見されたという事実にも関わらず、明文化した日米密約文書はないとしながら、日米合意のもとで核が持ち込まれていたことを認めた

この日本人だけに通用する玉虫色の決着に米国側は理解できない。
民主党政権の外交は失墜。民主党政権は、外交の信頼を担保する法案の策定を始めた。
これが秘密保全法である。

2010年8月、日航機123便墜落事故の再調査が前原誠司を中心に行われた。
これは2009年12月に、前原誠司を後援する京セラの稲森が日航の再建の責任者となったことと関係する。
稲森は、日航機123便墜落事故に政治犯罪が隠されいることに気が付き、前原誠司がこの事件に関心を持ち、遺族側の要求を受けたというのが真相である。
結果、前原誠司は2011年7月に123便事故解説書を公開して、事故原因は後部圧力壁の損傷という結果を再主張する。
 
後部圧力隔壁の損傷は、生存者の証言で有り得ない話であるにも、前原誠司らは従来の主張を繰り返した
これは、密約文書が発見されたにも関わらず、明文化された密約文書は存在しないという、岡田克也の調査報告と同じで、論理の破綻は、誰の目にもあきらかである。
にも関わらず、嘘というかデタラメを押し通した。何を守ろうとしたのか、いや、誰を守ろうとしたのか、それとも、脅されたのか。

2011年12月には、野田佳彦が秘密保全法を策定。
つまり、この時点で、民主党政権が覗いた戦後の政治犯罪の蓋を閉じる法案の基本が策定されたのである。
佐藤栄作の密約は事実確認がされていて、この問題を政治犯罪とするかしないかは日本国民次第であるが、日航機123便の事故は、その凄惨さと冷酷な犯罪が世に出れば、国内外で自民党と政府の信用は失墜するのは必定と考えたのだろうか。
とにかく、野田佳彦の民主党は、戦後の2つの政治犯罪というパンドラの箱を一旦は開けときながら、自分たちの手で再度封印した。

政権交代が起きても、前政権の政治犯罪を追求させないルールをシステム化する秘密保全法を策定。
そして、政権に返り咲いた安倍普三の政府は、秘密保全法を特定秘密保法として法案を提出し成立させた。
 
政権交代がおきても、過去の政治犯罪への調査をさせない知り得た情報の漏洩をさせない。そして、秘密文書として非公開期限を60年とすること。
このように特定秘密保護法案が策定された経緯を知れば、この法案の弱点がわかる。
そう、日本航空123便墜落事故の事故原因である。
 
事故原因が後部圧力壁ではないことは、世界の航空関係者が知っている。事故の生存者の証言でも機内の圧力は下がっていないのだ。
しかし、重要なポイントは、中曽根政権がこの事故を死人に口無しとばかりに、人命救助をしないばかりか生存者を殺害したことである。
これを問題とさせないために、事故原因の究明に遺族や関係者の目を向けさていることに気がつかなかればならない。
日航機123便墜落事故は、航空機事故というよりも、証拠隠滅のための殺戮という事件であり、国際刑事裁判が審査する事案であるのだ。

日本側が主張する後部圧力壁の損壊を事故原因とするために、当時の中曽根政権は、外交ルートを通して、ボーイング社と後部圧力隔壁を事故原因とする口裏合わせを要請しているはずだ。
この外交文書が、米国の公文書の公開で明らかになれば、国際刑事裁判所も動かざるをえなくなるだろう。

中曽根康弘は存命中である。
彼は、この事件の真相を墓場まで持っていくと公言している。

このように考えていくと、日航123便墜落事故の事故原因の嘘の証拠となる外交文書が見つければ、この法案の経緯も知られるであろうし、廃案にする道も開かれるはずだ。
だが、法案成立した現在、日航123便墜落事故を調査をした者は逮捕されてしまう。
この政治犯罪を証明するのは、特定秘密保護法が適用されない日本国外の日本国籍以外の人たちに託すしかない。


 <他サイトより転載:5>

事故調査委員会(略称:事故調)は『圧力隔壁の破壊によって垂直尾翼が破損した』と発表。
彼らは、昭和53年の同機の尻もち事故直後、ボーイング社による修理ミスによって亀裂(=金属疲労)が進行したと主張。そして、それが今回のトラブルにつながり、結果、垂直尾翼を破壊したと“推定される”と報告した。
つまり日本政府は『急減圧原因説』と採る。

しかし、日航関係者や同事件の真相究明者からすれば、この説は甚だ矛盾に満ちている。これは全くの作りごとだと思うのだ。
それはまさに、ケネディ大統領暗殺事件に関する『ウォーレン報告書』や、9・11事件についての『9/11委員会報告書』同様、全くのフィクションだと思う。
圧力隔壁の破壊は、同重大事件(=大惨事)の結果であって、決して、その『原因』ではない。この真実を我々は直視すべきだ。

では、123便に何が起こったのか?
高濱機長が叫んだ。「何か爆発したぞ!」と。実際、この時垂直尾翼が大きく破損し、ほぼ5分の3以上を失った。
これを評した著名な航空評論家の関川栄一郎氏が、テレビで述べた。「無人標的機がぶつかったのではないか」と。
関川氏は、当時たいへん信頼され、かつ非常に定評のある航空評論家だった。だが、彼のこの言葉はその後公には報じられなかった
しかし、大惨事の初期報道にこそ、まさに事件の「真実」が潜んでいる。

同事件の真相究明者の中には、この無人標的機を、ファイアービーという人がいる。
だが、他に、国産巡航ミサイルSSM-1の(爆薬を搭載していない)演習用ミサイルが日航機の垂直尾翼を破壊したと主張する人もいる。
しかし、そのどちらにしても、軍事兵器が垂直尾翼を直撃して、それを大部分破損させたことは間違いない
事実、6時18分時点(つまり、かなりの低空状態)で、或る飛行物体が同機を目がけて直進してくるのを、乗客の一人である小川哲氏は、自らのカメラに撮影していた。
つまり、高濱機長や佐々木副操縦士は、衝突が起こる6~7分前にはこの飛行物体を充分認識していたと考えられる。
なぜなら、この時間帯に同機はまるで何かから逃げるかのように、猛烈な急上昇をしていたのである。

では、一体誰がこの飛行物体(=ミサイル兵器)を発射させたのか?
在日米軍による極秘軍事演習中の出来事なのか?
それとも、日本の海上自衛隊に配属されたばかりの護衛艦『まつゆき』から発射(誤射)されたものなのか?
あるいは、その誤射さえ事前にアメリカ軍によって仕組まれていたものなのか?

実は、私にはかつて日航でパイロットをしていた知人がいる。彼の言によれば、日航などの民間航空機が米軍や自衛隊によって仮想の敵機と目され、軍事訓練の目標にされることが度々あったという。
同事件のあった相模湾上は、まさに様々な航空機が飛び交う航空路の銀座とでも呼ぶべき密集地域だ。そんな空域での軍事演習など、まさに人命軽視の蛮行である。腹蔵なく言えば、悪魔の所業だ。
    
この重大事件を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日一体何を考え何を命令したのか?


<他サイトより転載:6>

自衛隊の無人標的機と接触した説について。
自衛隊にはミサイルなどの発射訓練用にラジコン操作する無人標的機があります。これが尾翼に衝突したとする説です。
これを運用できるのは自衛隊の訓練支援艦という専用の艦に限ります。当時は訓練支援艦「あずま」があるだけです。
事故当日、あずまは相模湾ではなく遠く離れた母港の呉(広島県)にいました。無人標的機が飛んでいるはずがないのです。

護衛艦まつゆきが誤射した説について。
無人標的機とあわせて言われるのが護衛艦まつゆきによるミサイルの誤射。「無人標的機と間違えて誤射した」とか「民間機を標的にして訓練中に誤発射した」など書かれています。
まつゆきはJAL123便の事故当日は相模湾にいました。事故の連絡を受けて相模湾内の捜索にも協力しています。
このまつゆきが犯人なのかというとやはりそれはあり得ません。まつゆきが就役したのは1986年3月19日。JAL123便の事故は就役前の1985年8月13日。
この時のまつゆきは『自衛隊に引き渡される前、民間企業の所属』なのです。海上公試中であり自衛隊に引き渡されていないまつゆきが武装していたはずがないのです。
エンジンの性能テストで既定の速力が出るかなどを調べている最中だったのです。非武装の艦がどうやって誤射するというのでしょうか。

自衛隊の戦闘機が誤射した説について。
ミサイルの模擬弾というのは発射できません
キャプティブ弾と言って、推進装置及び弾頭はもたないが、実物と同じ形、同じ重さ、同じ誘導装置を搭載し、訓練で使用される代物。これでやるのはロックオンするところまで

開発中の88式地対艦誘導弾(SSM-1)と衝突した説について。
当時まだ未配備であり、その飛翔高度は10m~20mなので、JAL123便に異常が起きた高度7,200mとはどうあっても合致しません。
まつゆきが搭載したのは米国製のRGM-84ハープーンだからSSM-1を試験するなんてありえない

自衛隊が犯人扱いされる理由について。
「嘘をつく際は真実を一部混ぜると真実味が増す」「隠されたいた事実を暴くと、さらにその裏があると思わない」
情報戦の基本です。
JAL123便は【自衛隊によって】【撃墜された】。短い中に2つの情報が入っています。真実を混ぜられた嘘。
不自然なまでに色々な説で犯人とされる自衛隊。なぜか削除されない真相。
JAL123便は【撃墜された】。本当は【誰に】なんでしょうね。


 <他サイトより転載:7>

「政府のやる事に反対意見を持つ市民を殺害せよ、それが軍隊の仕事である」
「軍隊の仕事は他国との戦争ではなく、自分の国の市民を殺害する事にある」
 
米国アイゼンハワー大統領時代に、こうした戦略を立てたロックフェラー報告を元に、米国では市民殺害用のFEMAと呼ばれる軍隊が作られた。 
この『一般市民に対する暗殺部隊』の創設は、1958年1月、大統領により採択された、国家安全保障局命令第177=「NSAM.177」によって行われ、この命令書には「日本にも同様の部隊を創設させる」と記載されている。

この大統領命令に基づき、日本では米国、自衛隊の合同による日本人市民殺害部隊『パイナップル・ブリゲイズ』が既に創立されている。
このFEMAの事実上の総指揮官が、オバマ大統領のボス=ズビグニュー・ブレジンスキーである。


<他サイトより転載:8>

マレーシア航空370便失踪事件と、日航123便墜落事件は、あまりにも酷似している。
 
管制レーダーから消えた
戦闘機操縦の技能を持つベテラン機長が、その便に特別にあてがわれた
民間旅客機に、核物質と化学兵器物質を積み込んで、密売空輸しようとしていた
関係各国の諜報部と国防当局がマークしていて、敵国関係にある場合でも武器談合する各国の許容限度を超えてしまう武器密売を行う、当該民間旅客機に対して、空軍が発進し軍事衝突がなされた
事件は、別のストーリーで説明され、真相が隠蔽されている

このように酷似して、民間旅客機を使った武器密売空輸は、繰り返される。

核物質と化学兵器物質の密売シンジケートといえば、国境を超えるイスラエル=ウクライナ(ロシア)核兵器マフィア(グローバルユダヤ資本)である。
マレーシア航空370便失踪事件は現在進行形だが、日本航空123便墜落事件は御巣鷹山での結末をみんなが目撃した。
みんなが目撃したのは、ストーリーがついたテレビ新聞雑誌の映像であり、事件の真相は隠蔽されている。

真相は隠蔽されているのだと、なぜわかるのか。
当日の現場に警察よりも早く到着した地元の人の目撃証言と、事件を現在まで現場検証し続けた真相追究者による報告があるからである。

現場には、今も放射性物質が散乱している
現場に残された日航「123便」のエンジンに不発のミサイルが突き刺さっている
米軍の戦闘機とプロペラ機の、撃墜された残骸が残されていた
事件後、真相を追究するものたちには、電磁波兵器による攻撃が設定される


<他サイトより転載:9>

現場に警察よりも早く到着した地元民の目撃証言によると、不審な自衛隊らしき特殊部隊が、どの機関よりも早く御巣鷹山に現れた時、現場では数十人の(うめき)声がしていた
地元民が現場から引き返し始め、しばらくすると数十人の(うめき)声は急にしなくなった

日航「123便」核物質移送撃墜事件には、次の争点がある。

不審な自衛隊、防毒マスクをし、アーミーナイフを所持した(これらは当時の自衛隊の装備品ではない)自衛隊らしき特殊部隊とは何者か。
生存者を整然と殺害する自衛隊に似せた国営テロリストのような者たちは何者か。
事件後、真相を追究するものたちを、電磁波兵器を使用して攻撃する治安部隊のような国営テロリストのような者たちは、何者か。
このような自衛隊に似せた治安部隊のような国営テロリストのような者たちと、核物質移送密売の勢力とは、グルでありチームということになるのか。
いったい誰が計画・統括していたのか。
 
そして、自衛隊に似せた治安部隊のような国営テロリストのような者たちと、核物質移送密売の勢力とに、当時の中曽根政権と軍事官僚はどのように関わったのか。
その後の政権と官僚は現在まで、このような勢力にどう関わっているのか。

そして、日本の奥の院は、この事件とこのような勢力に関わりはないのか。
例えばヤタ烏(八咫烏)は大和朝廷由来の天皇の非公然私兵と言われるが、日本国民を監視し秘かに攻撃し殺害もする、このような国営治安非公然テロリストの仕事はしないのか。

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